青天井

とある縁で神社の助勤として御朱印を担当していたとき、同じく御朱印書きを勤めていたおじいさんと一緒になることが多かった。今はもう鬼籍に入ったその方は、よく分からないことでゲラゲラと笑い続ける変な人であったが、その筆さばきは実に鮮やかで見事なものだった。しばしば参拝客に「これは△△神社の御朱印帳ですか。このデザインはきっとあれそれが由来で……」などとトークを展開して時間を稼ぎ、私に仕事を皺寄せさせていたが、絶対に彼が数をこなす方が参拝客にとっても神社の印象にとってもよかったように思う。それほどまでに、おじいさんの腕前は誰が見ても「完成された書とはこういうものだ」と納得させられる域に達していたし、私もこんな風に書けるようになりたいと士気をもたらしてくれる類のものでもあった。

ある日、思わずそのおじいさんに「あなたくらい上手に書けるようになったらきっと楽しいと思う。どうやったらそんな風に上手くなれるのでしょうか」と尋ねたことがある。すると、その方はいつものひょうきんさなんてなかったように静かに微笑みながら「いくら上達しても、自分の書に対して今まで気づけなかった小さなひずみが目につくようになる、これの繰り返し。満足を得られる日は君にも私にも一生来ない。書とはそういうものだから」と答えたのだった。その言葉が、私にとっては書道にかぎらず何をするにあたっても、妙に救いとなっているのだ。

自分のやっていることが青天井なものだと分かると、他人との比較意識による苦しみや、はたから見れば意味のない優越感と劣等感から幾分か解放される気がする。そういうものは、到達できる頂点の形がぼんやりとでも見えていて、みんながそこを目指すからこそ活きるもので、それが意味をなさない場合に抱え続けてもいずれ馬鹿馬鹿しくなるのである。

とはいえ、青天井と真に向き合うようになるのは、いわゆる「中級」以上になってからだろう。それまでは競争意識や無力感を抱えざるを得ない。そういうものだと割り切って粛々とやるべきことを積み上げていくしかない。そして中級以上になったその先は、しだいに自分の取り組みから「他者の存在」が排除されるようになり、ひたすら自分との問答の世界になってくる。この静かな問答をはらんだ佇まいこそが、私がおじいさんに見出した憧憬の正体なのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?