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人の出会いは絶妙で、奇妙

人それぞれ、受け取り方が違う。好みもタイプも違う。

今日、ある共通人物A君について同僚と話す事があった。

A君に対する評価として、私は「好き」で、彼は「苦手」であった。

A君に関するあるエピソードに対しても、私は「好意的」に感じたのに対し、彼は「あまり良好ではない」と感じたようだ。

物事に対しては三者三様の受け取り方がある。

しかもその時の気分や「なんとなく」で印象が決定づけられることも多い。

A君に対する彼の評価も、何か決定的に嫌な事があったわけでなく、「なんとなく」らしい。しかも、その印象がもう4年ほど続いている様だ。

私も、この事に「なんとなく」興味を持った。逆にこの話を聞いても、全く興味を持たない方も多いだろうし、というよりむしろなんて事はない話なので、興味がない人がほとんどだろう。

子供の頃はもっと顕著で、後から振り返って「なぜその時そう考えたのか」理解できなかったり、言語化できない事が沢山ある。そういう「偶然」の印象を毎日積み重ねているのだ。

歳を重ね、積み重ねた量がある程度になった頃、ようやく何か一貫性の様なものが見え、それが自分の考え方、思考の癖、軸とかいうものになっていくのだろう。しかし、それらは実体としてあるわけでなく、「これまでの積み重ねを分析した結果、そういう傾向がある」にすぎない。自分の「考え方」とか「思考の癖」とか「軸」はその時々で形を変え得る「実体のないもの」だ。つまり、曖昧なものだ。

彼も、何か明確な理由があってA君を「微妙」と評価したわけではなく、もしかすれば会う時期やタイミング、立場が異なれば、全く違う評価をしていたのかもしれない。

「いつどのタイミングで、どんな形で会おうと君を好きになる」というセリフは大変ロマンチックではあるが、現実果たしてそうだろうか、と懐疑的な私だ。

第1印象が何かしらの理由で「最悪」かもしれない。「いや、その後何か挽回する機会があれば好きになるかもしれない」という反論もあるだろうが、その機会すら与えられないかもしれない。

「第1印象で決まる」とは真理だと思われる。一方で、印象なんて曖昧なもので信用ならないものでもある。

結局、人の出会いは妙なものだ、と感じるのである。




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