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私は、そう、他人の人生で息をしていた。

声の大きい人、目立つ人に人は集まる。

私もそう。

彼らは最もらしい事を言っているし、その人たちの周りにいれば、なんとなく充実できるんじゃないか、て思ってた。


確かに楽だった。

そういう集まりには、必ず「合言葉」があって、とりあえずその合言葉を出していれば『仲間』に認定された。

敵を作る事がなくなった。

だけども、違和感は膨れていった。


違和感、その1。

記憶力が格段に悪くなった。

あれはいつだろう。中学くらいの時か?

それまで、色々な出来事を鮮明に覚えていたのに、急に全てが色褪せたように感じた。

終いには記憶に留めておく事ができなくなった。


違和感、その2。

心にフィルムがかけられたように、生々しさを感じなくなった。

確かに空気と毎日触れ合っているのだが、フィルター越しに接している感覚。感触がない。

直に触れなくなったから、記憶にも残らなくなったのかもしれない。


違和感、その3。

何が好きか、わからなくなった。

だから、何が嫌いかもよく分からなくなった。

「あれ?これ自分好きだっけ?」みたいなSFが、リアルに起きた。


その他にも違和感はたくさんあった。


とにかく感覚がない。


そして、それが息苦しい。呼吸がうまくできていない。


はた、と気づいた事は、

私はいつの間にか、「他人の人生を生きていた」という事。

他人の思考をトレースしてきて、他人の価値基準に身を置いて、

周りに合わせて生きてきたという事。


そうする必要があったのは、恐らく「自分が周りと異なっていたから」。

大学に行って、企業に就職して、飲み会に行って、土日は接待して、ビジネス書を読んで、夜遅くに帰って、家族より仕事を優先して、貯金して、定年まで働いて、年金もらって、死んでいく。

そういう生き方が良い、という人もいれば、嫌な人もいるわけで。

私は嫌だった。

就職するのはいいけど、別に仕事で達成したい事とかないし、1番にも興味ない。飲み会は嫌いだし、帰ってしっかり寝たいし、出世欲はないし、残業は気にしないけど、家族やプライベートを優先したいし、貯金はしたいけど、旅にも出たいし、仕事以外で絵を書きたいし、写真を撮りたいし、子供は欲しいけど子供に全てを捧げる気は全くないし、最終的にはのんびりした生活で必要分稼げればいい。経営者の自伝を読んでも「なんか疲れそう」としか思えない。社会のために、というのも綺麗事に聞こえて嫌だった。マクロすぎる。あと、男臭いのも嫌いだった。メンズと名のつくものはことごとく性癖に刺さらず、メンズファッション誌のあまりの個性のなさに吐き気がした過去がある。組織は苦手で、大学は沢山の組織に入ってはすぐ辞めていた。(今、同じ会社で続けているのは奇跡)


そういう意味で、少し一般的な考えとは逸れていて。当時、周りから迫害されるのが嫌だったんだな。

それと、周りの凄い人たちを見ているうちに、自分のことをすっかり忘れてしまっていたらしい。

田舎が窮屈で都会に出てきたら、まあ色々な人がいて。正直圧倒されてしまい、物語の中にいる感覚になった。

そのうち、他人の人生を見ることに熱中して、自分の人生を生きることを忘れていた。

他人の出来事を聞く度に、一喜一憂するようになった。自分のことではないのに。時にはひがんだり、嫉妬したり、自分と比較して落ち込んだり。変なところにエネルギーを集中させていた。

よくSNSとかで他人に口を挟む人いるけど、私と一緒なのかな。自分の人生を生きれてないのかな。

常に私の中には、「他人」がいて、「他人」が私の中心だった。

私は、その中で息をし、密かに生きてきたらしい。


自分の人生を生きろよ。


これって当たり前なんだけど、すぐ忘れるよね。

私は、リハビリしながら、自分を取り戻しつつある。だいぶ我儘になっている。好きな事ばっかやっている。

昨日、とうとう新しいパソコンを買った。これで、イラストと写真に集中できる。

ひと昔の自分なら、そんなことしなかっただろう。

少しずつ変わりつつあるから、変化には気付きにくい。だから小さな変化を見逃さないようにしている。


少しずつ、息がしやすくなってきている。

ようやく人間らしくなってきた。



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