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7.出産の医療事故で大出血

弟が生まれたという知らせと共に私が耳にしたのは、

『お母さんが死ぬかもしれない』

という話でした。

お産で何かが起こったのです。

お母さんが出産したのは隣の駅の大学病院でした。ニュータウン中の妊婦がみんな集まる病院です。

家族が病院に運ばれた人、不測の事態で手術を受けた人なんかは経験されていると思いますが、こういうとき家族は、病院の待合室のような場所に詰めることになります。
でも、ここにいても、何が行われているのかはよくわからないんですよね。
いつ終わるのかもわからない。

ただ、お母さんの場合、とにかく輸血が必要で、血液バンクからきている輸血用の血液では足らないということで大騒ぎになりまして、友人知人に呼び掛けて献血に来てもらったので、シーンと待っていたわけではありません
バタバタしていました。

そんな様子から、

『出産で大出血が起こった』

ということは、10歳だった私にも理解ができました。

のちほど聞いた話によると、医療事故だったそうです。

第二子第三子となると初産よりも簡単に生まれる、分娩にかかる時間も短くなる、というのが常識ですが、それはあくまで一般論。皆がそうというわけではありません。お母さんの場合、今回の出産は初産だった私の出産時から10年の年月を経てたこともあり、そんなにポンポンとは進まなかったようです。

ここで出産にまつわる女性の体について、整理しておきましょう。
出産時には女性の体は形を変えます。『今が出産のときだ』とホルモンで知らされた体は、子宮口という膣の奥にある子宮の入口が徐々に開き、赤ちゃんを通せるようにします。
骨盤もぐっと動いて、赤ちゃんが降りてこられる道ができます。
出産は鼻からスイカを出すくらい痛い、というたとえ話がありますが、出産は怪我でも病気でもないので、体はそれなりの準備を経てできるだけ安全に赤ちゃんを産もうとするのです。

子宮口がずっと開きっぱなしだと赤ちゃんを包んでいる羊水が出てしまいますし外界は雑菌だらけ、感染してしまったりしますから、出産のそのときまでは閉じている必要があります。
性交時にも閉じていますが、精子は大変小さいですし自ら動きますから(といっても分速何ミリという速度らしいですが)、この子宮の入口を突破してさらにさかのぼり、卵管の奥で卵巣を出てきた卵子と出会う、というわけです。

お母さんの出産は時間がかかっているという以外に特に心配な兆候もなかったので、夜間は医師は不在となっていました。
この医師のいない時間帯に、事件が起こりました。
24時間以上の時間がかかっていた分娩を促進しようと、助産師が独自の判断であおむけのお母さんの腹の上に載って圧迫したのです。
子宮口が十分に開いていないのにも関わらず。

恐ろしいことですね。
子宮口が十分に開いていないのであれば、膣からの出産はできません。
そんなことをしたら、子宮口は壊れて本来の働きを失ってしまいます。
分娩が進まない場合の対応としては陣痛促進剤を使ったり、その効果が薄ければ帝王切開をする、というのが当たり前の手順であり、そうしていれば何事もなかったはずです。

結果、無理やり押し出された赤ちゃんは眼瞼にダメージを受けたものの一応健康体で誕生。かたや母体は大出血。1リットル以上の出血だったそうです。
人間の血液は体重が60kgくらいであれば4リットルくらいとのことですから、4分の1以上の血液が失われたということになります。
そうすると、出血性ショックという症状が出るようになり、呼吸ができなくなったり内臓がうまく働かなくなったりしてしまうんですね。生命の危機です。

それで、大変怖い話なんですけど、おかあさんの羊水は肺に上がってきたそうなんです。それでおぼれかけたと。
大人気の医療漫画、コウノドリにも登場した、羊水塞栓症という症状です。
お母さんの場合、出血多量によって血が固まりにくくなり血圧が下がり、そこに羊水が入り込むことで、血液の巡りによって羊水が肺に入った、という経緯です。
よくあることではないらしく、お母さんの症例は論文で発表されました。

視点を10歳当時の私に戻しましょう。
当時、分娩室でそのようなことが起こっていたことは、私はまったく知りませんでした。

輸血に訪れたひとは結局、20人以上におよびました。

お母さんはRH+のO型で、決して珍しい血液型ではありません。
とはいえ、友人、知人の血液型なんて、ほとんど把握していないでしょう?
コミュニケーションのハブになっているような人がさらにその友人知人に声をかけてくれたとも聞いていますが、とはいえ、お父さんが社交的な母の電話帳から手あたり次第にかけた電話は、100件を超していたのだと思います。

その頃は携帯電話もなかったですし、電話帳は手書きで専用の電話帳用のノートに付けていました。お父さんは家に戻って電話をジーコ、ジーコ、とダイヤル回して、100件の電話を掛けたのでしょう。

献血してくれたのは20人程度ということですが、実際に来た人はもっと多かった。やけに人が多くてごったがえしていました。
『RH+O型以外も確実に来てるな』
と思いました。

病院の待合室に座っていた10歳の私に、献血のために訪れる母の友人、知人がひとこと、ふたこと残していく励ましの言葉が、事態の深刻さを物語っていました。
大学病院のベンチの皮も大理石模様の床のタイルも偽物で、ペラペラしています。
薬の匂いが滞る中、時折、病院食の匂いが吹き抜けていきました。

「お母さんのこと、心配ね。」

ねぎらってくれたのが誰だったのか、覚えていません。絶対に知った人で家に何度か来ていた人のはずだとは思うのですが、どの名前とも結びつきません。ハンカチを握りしめていたような気がします。そんな印象が残っています。白いハンカチの女性。

私はしずかに、でも率直にこう答え、彼女を凍り付かせてしまいました。

「ううん、お母さんが死んでも、私は大丈夫。」

ぎょっとした白いハンカチの女性は、私のお父さんにそっと、「まだ子どもだから、わからないのね」とぎこちなくほほ笑むと、帰って行きました。

せっかくご足労いただいた優しい方をびっくりさせて申し訳ないことをしました。
でもこれが、私の本心でした。

『だって何年も何年も、お母さんはこのことを予告していたのだから。
 だから、予告どおりにいま死ぬんだ。』

悲しいという気持ちはまったく、ありませんでした。
それはもちろん、かつて昔、執拗に死んだふりをされたときには恐怖に怯え、『お母さんが死んでも泣かないのよ』と言い聞かされて、大変悲しい思いをしました。それは既に書いたとおりです。
でも、人は自分のこころを守るために殻を作ることができるのです。そしてまるでことあるごとに『別れる』と騒ぐ恋人に対するように、10歳にして既に私のお母さんの死に対するこころは冷めきっていました。

ただこのときは、ものごとが、決められたように、粛々と進んでいくことを感じていました。

これは、母と子の契約だったのです。

私の年端がいかないうちにお母さんは死ぬ。
私はそれを悲しまずに生きていく。
私たち二人はかつてこのことをめぐり血判を捺して固く契約を交わした。
これは定められたことであり、
私たちの間のきずなであり、
お父さんも知らない、二人の秘密である。

と、10歳の私は純粋に信じていました。

ところが、お母さんの側はどうだったでしょうね。
のちのち、おいおい、お話ししていければと思います。

さて。
出産で大出血を起こして死ぬ。
その死に方はお母さんにとてもふさわしい、と私は感じていました。
それについて、天に文句を吐いたり、お母さんを連れて行かないで、とすがる気にはなりませんでした。
むしろ、十分で、不足がないと思っていたのですから。

そして、と言うべきでしょうか。ところが、と言うべきでしょうか。

お母さんは、死にませんでした。

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