見出し画像

2.赤い手袋と赤いきつねと赤いキムチ

雀のお宿

私が10歳になる直前まで、お父さん、お母さん、私、の三人家族は、とある神社の参道沿いの竹やぶに取り囲まれた平屋を借りて住んでいました。
神社はなにやら由緒のあるところのようでしたが、七五三や年末年始の二年参りの時以外、しんとした人通りのない参道でした。
参道の左側は人の家が立ち並んでいましたが、右側は涼やかな竹藪になっており、その奥まったところを切り開いて何件かの家を建て、借家にしていました。大家さんは神主さんで、広大なお屋敷の玄関には見事なケヤキの一枚板から作ったついたてが置かれていました。
私たちの住む家は平屋の3DKで、どの部屋も床は畳貼り、トイレは汲み取りで和式でした。庭にはケヤキだかエノキだかの大きな古い切り株があってキノコが生えていました。竹に侵食されていないところを選んで、家を建てたのかもしれません。
神主さんの家のお墓はお屋敷の敷地内ではなく、私たちの借家の中にありました。高い塀で囲まれていましたが、この塀は雨が降ると大きなカタツムリがぬりぬりと這って、何かと湿っていました。塀の中には大きなムクロジが生えていて、シャボンになるという実をぼとぼと、塀の外へ落としました。

竹藪の中で大家さんの鶏が放し飼いになっていたことや、私のペットのひよこから大きくなった鶏もよく間違えられてそこに放り込まれていたこと、竹の葉が他の木の葉のように簡単には分解されていかずほうっておくとどこまでも積もっていくことや、竹ぼうきで竹の葉を掃除すると冬眠中のガマガエルが出てきたこと、切られた竹に溜まった水から藪蚊が湧いて縁側にいると次々に刺されたことなど、いまでもまざまざと思いだします。
中でも記憶に鮮やかなのは、音です。
竹藪とは、いつも音がしていている場所なのです。さらさら、さらさらと。竹の葉は軽く、枝は大変しなやかですから、ほんの小さなそよぎにもゆれて、ひそひそ話をしているのです。たいていは静かですが、嵐が吹いたときのドウッという騒ぎは胸を握りしめられるようで、恐ろしく、今も耳に残っています。

お母さんはその家を、雀のお宿と呼んでいました。

昔ばなしに出て来る、竹藪の中の雀たちの屋敷ですね。正直なおじいさんが小さなつづらをもらい、欲張りなおばあさんが大きなつづらをもらうという話だったように思います。

雀のお宿の一室には、
お母さんの嫁入り箪笥とは別に、黄色い安物の整理ダンスがありました。
その一番上の引き出しに、お母さんの手袋が入っていました。
赤い毛糸の手袋です。
今ほど物があふれている時代ではなく、
手袋といったらそれ一組しか、
お母さんは持っていませんでした。

母の家出


「名古屋の伯母ちゃんの具合が悪いから、ちょっと行って看病してくるからね。いい子にして待っててね。」

ある土曜日に母から電話がかかってきました。駅の公衆電話から、かけていたと思います。

私はまだ小学校に上がっていなかったはず。5歳くらいでした。

お母さんがお伯母さんの看病に出かけたのでないことは明白でした。
お父さんがもうそれは不機嫌で、腹いせのように、
「お母さんはもう帰ってこないよ!」
と言っていましたから。
そもそも、家で言って聞かせてから出かければ良いものを、逃げるように出てから電話してきておかしな言い訳をするなんて、年端も行かない子どもにも明らかに不自然でした。

お母さんはお父さんとケンカをして、名古屋の伯母さんのところに家出をしたのです。

お父さんとお母さんはよくケンカをしていました。
私はそのたびに壁に耳を押し当てて内容を聞き、家の事情に通じている大人のような気持ちになっていましたが、今考えるとその内容はほとんど覚えていません。
ただ、『ケンカしてたこと、知ってるぞ!』と思うだけで何か大人に匹敵している気がしていたことは、覚えています。

私たちの家、雀のお宿は東京都内ですから、名古屋はずいぶん離れています。
大人になってから考えると、家出の新幹線のチケットは伯母さんが買ってくれたのかしら、専業主婦だったお母さんもへそくりがあったのかしらね、など、いろいろと不思議に思います。
この伯母さんは私の祖父の先妻の子で、私のお母さんとは10歳ほど年が離れており、母親代わりのようなところがありました。
一度結婚をして子供を二人もうけたそうですが、離婚して親権を取られ、子どもたちは母親の悪口を吹き込まれて、会うこともかなわないのだ、という話でした。その代わりか、末の妹の娘である私にあれこれとものを買ってくれて、流行りの高いおもちゃから学習机まで、働いたお金で買ってくれました。年下の人と結婚して、子どもはいませんでしたが、二人で働いて大きなウォーターベッドがあったり、寝室にもテレビがあったりと、当時としては余裕のある暮らしぶりでした。
お母さんが家を出て身を寄せるとしたら、この伯母さんの家でした。

『いい子にして待っててね』と言われたものの、私はとても心配になりました。大好きなお母さん、世界で一番きれいで、優しい人がいなくなってしまったのですから。

お母さんの手袋

そこで5歳の私は何をしたでしょうか。
雀のお宿の中を捜索して、お母さんの持ち物をさがしたのです。
自分で名古屋に出かけたり、伯母さんのところに電話をかけたり、お父さんとお母さんに仲裁を持ちかけたりは、できませんから。
子供なりに必死で考えて、とにかく探し回りました。
これもまた、今思えば夜中に親のケンカに耳を澄ませて知った気になっていたのと同じ、子どものひとりよがりのひとつなのでしょう。
そして私は、黄色い整理ダンスの中にお母さんの赤い毛糸の手袋を見つけたのでした。

『手袋があるから、必ず帰ってくるに違いない』

幼かった私はその考えにすがりました。
だからあれは少なくとも、冬だったんだと思います。

それからあと、数日、お母さんは帰って来ませんでした。
お父さんは会社をどうしていたんでしょうね。今思うといろんな現実的なことが、とても不思議です。
きっと、休んだんでしょうね。

最初の電話の後は、電話が鳴っても、
お父さんは取らせませんでした。
布団から起き上がろうとしても、隣の布団で寝ていたお父さんの腕が力強く私を押さえつけていて、起き上がることができませんでした。この時初めて、お父さんへの憎しみが芽生えたのを、はっきりと記憶しています。私のやりたいことを阻むことができる圧倒的な力を持っているお父さんを、私は憎みました。

お父さんはまったくお母さんに譲る気がない様子で、お母さんが帰ってくる方向に働きかける気はまったくありませんでした。伯母さんらしき人から電話がかかってきても、

「こちらは全く困ってはいませんよ、そちらで頭を冷やして考えが改まらないのだったらかえって来なくてもかまわない、でも、N子が泣くのでそれに困っています」

と、生意気な口ぶりで言っていましたが、本音は最後の『N子が泣くので困っている』というところだけだったと思います。

お父さんの若いころというのは、譲歩しないことが最大の戦略だと考えているふしがありました。そのせいでたくさんのチャンスが破壊されてしまっていることには、気が付かないようでした。

一方お母さんはあまり深い考えのない人でしたので、ここまで譲歩がないという計算がなかったのでしょう。時間と共に母心がもよおしたようで、なんとか私と電話で話したいと考えたようです。

そしてとうとうお母さんは友達だった隣の家の若いお嬢さんのところに電話をするということを思いつきました。
お嬢さんは家に呼びにきたので、お父さんも私を出さないわけにはいきませんでした。 
私はやっとお母さんと話すことができました。
お母さんは、お父さんの言う事を聞いていい子で待っているようにとか、彼女自身の不安を払拭するための言葉をいくつか並べ、私の声が聴けたことに概ね満足している様子でしたが、こっちはそれどころではありません。


「あのね、お母さん」

必死で自分が話したことを覚えています。

「手袋を忘れてるよ」

今後何度もなんですけれど、ここぞとばかりに私が言葉を発する時、お母さんの反応というのはいつも期待と違って、とんちんかんで、そして残酷なのです。これがその最初になります。
お母さんは、なんと、こんな驚愕の事実を教えてくれたのです。

「手袋がなくても大丈夫だし、
名古屋の伯母ちゃんのところにも手袋はあるのよ」

と。


お母さんは私を安心させようとしたのでしょうか。

でも今、こうして書きながら私は唇をぐっと結んで、こう思うのです。

やっぱりお母さんは私のことをこれっぽっちもわかっていなかったんだな、
最初から今に至るまで、ずっと、一度も、わかっていなかった。
お母さんは私を置いて出て行くべきではなかったし、ここでいうべき言葉は、必ず帰るから大丈夫、というものであって、『手袋はこの世に一つではない』というのは小さな子供の世界を不安定にするだけの、最も愚かな答えでした。

でも、子ども特有の逞しさで、結局私は、このことから大いに学びました。
それはまた、別の機会にお話しすることになるでしょう。
まあ、ともあれ、このときはお母さんは帰ってきました。

伯母さんが付き添ってきたんですよ。仲裁役ですね。
お父さんが謝れば形になったと思いますが、お父さんは謝りませんでしたので、ずいぶんギクシャクしていました。
私はお母さんが帰ってきたので大満足でした。

ソウルフード

その時なぜか、4人で赤いきつねとキムチを食べました。

えっなんで?

私は自分の記憶にときどきこうやってツッコミを入れてるんですよ。

だってさ、なんで赤いきつねとキムチ?

今でこそキムチってコンビニやスーパーでいつでも買えるものだけど、当時は珍しいものだったような気がします。韓国系でもないわが家に、なぜキムチがあったんだろう。名古屋市内の韓国街で買ってきた、伯母の手土産だったのかしら。

そして赤いきつね?お父さんは、お母さんがいなくても自炊できるということが見せたかったのでしょうか。見せられていない気がしますが……。
黙って出前でも取ればいいのに。

細かいことを考え始めると幼少期の記憶に自信がなくなって来ますが、今でも赤いきつねを食べるときに一緒に食べたいのは、キムチです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?