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わたしの根っこ

おはようございます。朝、文字で心を整えるyakoです。

昨日、オンラインコミュニティのミーティングにて、わたしの幼少期。
いわゆる『根っこ。』の部分を話す機会をいただいた。

わたしから見る私の幼少期は、まったく子どもらしくない。
大人がどういう反応をすれば喜んでくれるか、手に取るようにわかる子どもだった。

これ、保育士的に言えば、『大人の目ばかりかにする子ども』として、少し手をかけてあげたくなる気になる子になるだろう。。。

「あなたは本当はどうしたいの⁇」

とわたしなら、しつこく聞くし、そして、思いっきりあそび、今を生きていけるように、サポートするだろうとおもう。


嫁姑問題。夫婦問題。の間に無意識の時代から挟まれていたのだ、大人の空気を読まないと生きていけなかった。

母から祖母から降ってるお互いの愚痴。父は、仕事のストレスから、ずっとピリピリしていたので、わたしを見る余裕はなく、怒ってばかりいた。

なので、

どういう反応をすれば、相手が喜んでくれるか。。。それが1番大事だった。そうしなければ、家族の機嫌が悪くなるのだから。。。そんなこんなで身についた力をフル活用してきた。

その力の反面、めちゃくちゃ無邪気で奔放なわたしもいた。

わたしごとに関しては、深く考えずやりたいと思ったら、やる!習い事から、欲しい本から、

「あなたがやりたいことはやればいいの」

という感じでやらせてもらった。

文字化すると、こうやってギブアンドテイク的な両親との関係。なかなかうまいことできているなぁーと思う。

おかげで感情の振り幅が、大きくて。からだとこころがまったくついていけず、ぐちゃぐちゃになることもあったが、ヨガ(こころとからだをつなげる)や保育(見えないこころ教育)、子どもたちとのであいで、今の感覚に至っている。


いろいろ振り返り手放す必要があったのは、それを見るためのわたしのフィルターがあったから。
そのいわゆるフィルター(鏡的なもの)の存在に気づいてしまえば、それが結果的に、わたしのいわゆる個性でもあり独特な感覚に繋がるのだろう。(わたしは普通とおもってるけど)

36歳になるいま。両親には感謝しかない。これは、本気でおもっている。

潜在的にもっている、無邪気さと奔放さだけでいきていたら、常識もなく、人に共感することもできず、人に関わる事なく。
さっさと異国の地で、のたれ死んでいたちがいないと、想像してしまう。

こわい。こわい。

本当にうまく出来ているのだなぁと、神の采配にも感謝だ。
母とは、上記のことを含めて、いろいろ話をする。母心を思うと。悲しいこともいってるとおもうので胸がいたいこともあるけど・・・ついに先日。

「娘だからしょうがない」と話していた。いや、すごいな母。

唯一何考えてるわからない父のこころは、実は冷静と情熱を行き来してることを感じて。わたしは父に似ているんだろう。と、思ったらすると、愛おしくてたまらない(笑)


この、鍛えられた共感能力は、快適に生かされているし、そもそもの奔放さとのバランスもわたしの中で調和されているなーとかんじている。

嘘をつかなくなった分。感情の幅との付き合いも上手くなった。


両親との関係は、人生の土台になっている。
わたしがこの両親をえらんだのだから、ここを否定していたらやっぱり何も始まらなかったのだろうと、最近つくづく思うこと。
実家に帰ってきてから、3ヶ月。
まだまだ、いろいろ気づきをお互い見ていく。

それが、生活している。生きあっている ということなのかもしれないな・・・と思ったりしています。

そして、そんな毒づいた時代のヤラカシを、大笑いしてくれて仲間がいる。

人生、ネタ作り

といってるともだちがいたけど、毒だと思って解放していなかったものもぜんぶ、言ってみると、笑ってくれる人がいる。

そして、過去の私は、もうただの出来事なんだなって。嫌いでよかった。苦手で良かった。くるしんでよかった。

全部、体験してみたかった。
あるいみ、あそびみたいなもんだよなぁーとおもう。

すべては完璧な遊びだ。

ということで、昨夜から、コツコツと栗の渋皮煮なるものを作ってる。

鍋が気になる。1日になりそうだ。

今日もきっと良い日になるね。

行ってらっしゃ〜い。






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