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暇と退屈の倫理学


人生、間違いなく暇になると思って読む

1 需要と供給
前までは、持たざる者があるものを手にした時に幸福を得ていた

好きなことが何か、自分のしたいことがはっきりしていた
労働者の労働の搾取が問題だったが、
今は暇が搾取されている

人間はどんどん暇になり、何が好きでにをしたらいいかわからない
セールストークや広告の誘導される一方で、
セールス側が得をする仕組みになっている。

そもそも人間は、退屈を嫌うのであるもの。
どう生きるか、どう向き合うか。

2 苦しむを求め、惨めである

欲望の原因と欲望の標的は違う

うさぎが欲しいから狩りにでる
お金が欲しいからギャンブルする

ではない、プロセスが楽しい
脳汁が出ること、熱中できることを楽しんでる
目の前にウサギとお金を出しても満足しない。
愚かである。それを知ったような口をして言う者もまた愚かである。

退屈は嫌う、部屋の中にじっとしていることはできない

部屋から出たがるのが人間で、何かに熱中したがる。熱中をするためなら苦しみでも買ってでる。

退屈の反対は、興奮であり
非日常を求める。日常は嫌いで、何か事件が起きればそれは楽しい。

遡ると、1万年前までは定住という考えがなかったらしい。
遊動生活が普通で、狩りをしたり、新しい場所を転々と暮らすのが1万年前までは常識だった。

新しい環境に行けば、頭を使い退屈になることはなかった。道は?どこで獲物を掴め得られるか?狙われないか?など
地球環境の問題もあり、定住するようになっていった。


幸福論では、熱中できるものがあれば、人間は幸せ。熱中できなければ、幸せではないという。
暇と退屈、衣食住に困らない生活には、表現できない不幸せがある。


3 経済

労働の中に、余暇も含まれる。
余暇で何をするかによって、労働者の生産性は変わるから。

産業革命期、労働者の労働時間外もスパイをつけるほど見張っていたらしい。

それによって労働とは、資本家に搾取される惨めな行為であるかのような文化も根付き始める。

労働を労働と思わない、仕事を楽しいと思える人間はまた珍しい。
珍しい人間になれないと、惨めだという風潮もでる。

現代では、
1章の話に戻るが、供給バランスがおかしく
絶え間ないモデルチェンジを強いられる。
それによって設備投資ができず、人間が働き続けないといけない仕組みになっている。

消費者が変わるべき、モデルではなく質を見るべき

4 贅沢とは 退屈とは

贅沢とは、十分では足りず十二分のことである。
浪費と消費は違い、浪費はお金を使い、手にすること。消費は観念に振り回されること。
食べ物、ブランド、趣味は満たしてくれる
〇〇をしなきゃいけない、仕事 欲しくないものを経験しても消費されるだけ 見たくないもの見て、トレンドに引っ張られる 消費

退屈定義が3つ

第一 
電車の待ち時間
cm 友達を待つ時間

第二
微妙な飲み会 パーティーに行った後に感じる
なんか退屈だったな けど 楽しかったな
という不思議な感覚

第三
なんかわからんけど、退屈だな

ほとんどの人間が、第二のパターン
自分のやりたいこととかではなく、
退屈から逃れるために、何かの奴隷になる

なんとなくの環境に入り、退屈と気晴らしの両方を感じている。

総評

自分としては、暇だから仕事してる感覚はあった。やりたいこととか見つけるのに人間の意識とかを理解する必要があると思って読んだ。

決断を避けたがる、気晴らしと退屈の両方の道に進んでやり過ごしている、のは間違いないと思った。
それが悪いわけじゃあないし、人それぞれ人生の価値観はあるし。

環境を変えることはいいことだと思ったし逆に変わりたいなら環境を変えるべき。

どうなりたいか、そのために何をしたいか含めて整理する、その上でどんな行動するか、自分にしかできないことをやりたいな、と思った

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