多様性の犠牲者としてのグレタ氏

グレタ氏の事を知ったのは、とある勉強会だったのだが、彼女の太鼓持ちをしていた方が、ほぼ皆、沈黙している。

「気候変動に問題意識を感じて、学校に行かないでスクールストライキをして」って。

日本にも、やれ革命家になるだ、やれ、YouTuberになるとか言う小僧が出てきている。スクールをストライキするって酷い。
ストライキなんて、地方の鉄道会社でもきょうびやらないぞ。

(東陽片岡先生の「されど我らが人生」というマンガで「勝新太郎の喪に服す」と言って、仕事行かずにふて寝してる人が登場していた。)

話が脱線しがちだが、環境少女グレタ氏の話に戻す。

最近だと、拘束されたり、企業批判をしたり…。

彼女を礼賛していた人々の沈黙は、過激化し、セクト化しながら先鋭化に突き進む左翼運動をハラハラしながら見ていた、大多数の「市井の人々」の冷ややかな目に近い。

グレタ氏という偶像による脆い「連帯」や「多様性」はやがてアノミーに至り崩壊過程に至るだろう。

そうした意味で、彼女は英雄どころか、犠牲者とも言える。

気候変動であり、左翼運動であり、多様性であり、本来受けるべき教育を受けられないという意味での犠牲者である。

彼女は自分の着ているジャケットが、どういう素材で出来ているか、あるいは肩から掛けているナイキの鞄が彼女の手元に至るまでどのようなプロセスを踏むのか、調べてみれば良い。

私は馬鹿にする意図は一切ない。

あるいは、ナイキがスポンサーをしている可能性もあるけどな。

知らんけど。

私自身はこの行き過ぎた環境運動が、どのような結末を迎えるのか予想もつかない。

しかし、必然的に訪れるであろう運動の衰退や、崩壊が、日本の左翼運動が日本を震撼させた浅間山荘をはじめとする数々の事件、その後の内ゲバのような悲劇を生まない事を祈りつつ、本稿を締めくくりたい。

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