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その指揮者は〈何〉を振っているのか

指揮には大きく分けて、2通りのスタイルがある。ひとつめは、目の前のオケを振るスタイル。(オケの経験のない人は、「目の前のオケを振るのは当たり前だろう」と思うかもしれないが、以下に述べるようにそれが当たり前ではない。)ふたつめは、あたまの中で鳴っている音楽をひたすら振るスタイル。ふたつ目の指揮者の場合は、常にオケが指揮を1テンポ遅れで追いかけて行く感じで、最初から最後までちょっとだけ指揮よりも出音が遅い。指揮とオケの音が一致して音楽が進行する類は、「オケを振って」いる結果であっても、指揮者の内面的イメージの音が実際に鳴っているとは限らない。

自分の乏しい経験からの話ではあるが、カリスマ性のある指揮者は、あたまの中の音楽しか振っておらず、オケが鳴らしている音など聞いていない(ただし、オケを完全に信頼している)ようにすら見える。この手の指揮者の例として古くはカラヤン、あとはマーラーをよく振ったベルティーニがいる。このような指揮者によって導かれるオケは、ひたすら指揮者のあたまの中の音楽を模倣しようと必死で格闘する。そこに狂気の音楽が発生する。

こうした大雑把に2種の指揮者がいるわけだが、そのどちらのスタイルにも行きつ戻りつできるどっち付かずの指揮者も一定数存在するようである。

だが日本では後者のタイプにはほとんどお目にかかったことがない。自分の狭い経験から言うと、十束尚宏氏がそのタイプでとても感銘を受けた覚えがある。オーケストラの団員にとってはなかなか手厳しい指揮者であったので、苦手な気持ちになった団員は少なからずいたと想像する。

ここまで書いた自分の文章を改めて読み返してみて、「目の前のオケを振る」前者のタイプの存在が少ないのはある意味必然で、オケのレベル次第なところがあるのは否定し難いと思った。やっと音楽をやっているようなレベルのアマチュアのオケや、やっと譜読みが終わったばかりの時点のオケが、後者のようなカリスマ的な指揮者がやってきて突然自分のあたまにイメージされている音楽を没頭して振ったところで(おそらく)成立はしないし、指揮者が自分の頭で鳴っている音楽にただただ忠実に振り続けることを可能にするには、非常に高い技術を持った楽団でなければ無理な話だろう。

この書き込みのようなことがどうして断定的に言えるのかというと、実際にカリスマ的な指揮ぶりをみたことがあるからでもある。30年以上も前の留学中の話で、当時セントルイス響を振っていたレナード・スラトキンとのエピソードだ。個人的にスラトキンは特に好きな指揮者でもないのだが、彼が学校のリーディング授業を振りにきた時に、やっと譜読みができているかどうか、みたいな音大学生のオケを最初から最後まで一度も止めることなく(鳴っている音を聴かずに、)ただ振り続ける、というのを体験したことがあったからだ。

リーディングは、言わば初見大会みたいな授業なのに、その指揮は完全に本番の振り方だった。落ちたり付いていけずに破綻するようなことがあちこちのパートで起こるのだが、そのようなことにまったく意に介さずに最後まで振り続けたのは、後にも先にも、これ以上にない真の衝撃であった。そして「あ、これが彼がセントルイス響などでやっているやり方なのだ」と悟った。最初の練習が本番さながらの真剣さで挑まないとプロでも破綻するであろうやり方なのだが、それがスラトキン流なのだった。

この体験をして以来、指揮者のタイプというのが、指揮ぶりを見ていると、わかるようになったのだった。ある意味、自分の音楽に忠実であろうとする指揮者は、眼前の音を聞かずに無視できるような精神集中の手法があるらしいことを知ったのだった。音楽を作るにあたって、音を聞かないわけにはいかないが、指導のフェイズが終わったら、おそらく本番では眼前の音を聞かずに最初から最後まで自分の音楽を振り続けることができるタイプの指揮者がこの世には存在するのだ。そしてそのような指揮者こそ、一流の指揮者と言えるのだと考える。

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