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これを戦争であると想像してみよう

子どもの頃からずっと、いずれ戦争が起こる、努力しなければ必ず起こると言われ続けて育った。学校の先生からも、親からもそう教わった。そういう上の世代の教えは、オーラルだけでなく、戦争の悲惨が戦争映画やドラマ、ドキュメンタリー、小説などを通していくらでも描かれて来たことでも十分に伝わっている。戦闘という戦争の実態も、戦争がもたらす非戦闘員たちの体験する悲惨も、さまざまに言い伝えられて来た。そしてそのような血で血を洗う戦争は絶対に避けなければならないと教えられて来たはずだった。

しかし戦争は止められなかったし、やはり自分が生きている間にやって来た。それは戦っている当人たちが戦争の時代を生きていると意識すらできないほど、「非暴力的」で「静かな」戦争という形でやって来たのだった。事実を事実として正しく認識することができない、科学的思考の難しさ、知識人たちの党派的思考、そして知性を過小に評価する反知性的な志向など、われわれの認識の限界が武器として使われたのだった。

われわれは今起きている「新型コロナウイルス」とそれによって引き起こされるという病気の恐ろしさを疑うことが許されず、自発か強制を問わず「自粛」するという形で、この世界のメカニズムを徹底して壊すことを選んだ。

経済圏というものは、実に精妙なメカニズムで、非常に大きな歯車や目に見えないほど小さく微細な歯車など、様々なサイズの歯車がすべて止まったりせずに正常に回り続けることで、全体の運動が保たれていると喩えることができるような、極めてデリケートなオーガニズム(組織体)なのであるが、そのどれが潰れても、全体への影響を回避することができない。大きいからより重要だとか、小さいから重要度が低いとかいうものではなく、すべてが「あるようにある」ことで、動き続けることが可能になっているのである。例えば、大きな歯車を強引に止めたらどうなるであろうか、その歯車の運動を支えているあらゆるより小さい歯車も止まらなければならない。すぐに止まらない場合は、歯車は潰れても回り続けるかもしれないが、こうして一度潰れて壊れてしまった歯車を再建するのは容易なことではない。逆に大きな歯車は回り続けようとしているのに、それより小さな歯車が止まってしまったらどうだろう。この場合もやはり歯車は潰れてしまうであろう。

世の中の隅々までこのようなオーガニズムは浸透しているのが現代の社会だ。「ちょっと止まってもまた動かし始めればいい」と楽観的に言えるほど、単純なものでもない。一度壊したものを再建するのは極めて難しいことなのだ。壊してしまっても、人間は生きていかなければならない。

だが、「自粛」を簡単に口にして、政府の愚策を後押しして良しとするような人々や現政権の政策が生温いと考えるような想像力が、こうした精妙な社会の仕組みを実感として理解しているようには思えない。壊してしまったものの大きさに気づいているようにも思えない。

コロナ騒ぎはおそらくあと何年か続けられるであろう。一度始めた戦争が簡単に収束できない事情と似ている。そして人々が目を覚ましてこのような愚挙は今すぐやめなければならないと気付いた時はすでに遅く、われわれの住む世界はすっかり焼け野原になっているであろう。

一発の爆弾も落ちず、人が人に銃口を向け合うような戦闘の一つも起きずに、われわれはこの世界を焼け野原にすることに同意したのだ。これはまったく新しい戦争の形態だ。戦争が経済や支配権を巡っての闘争であるのと同時に、人口調整と経済組織体のスクラップアンドビルドの意味合いを持っていた(少なくとも、そう考える人々がいる)のであれば、「コロナ禍」は、それを一発の爆弾も使用せずに達成することができたと評価を受けるかもしれない。少なくとも、そのようにこの機会を捉えている人々が支配層に一定数いるであろうことが想像できるくらいの想像力を持っても損はないであろう。

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