青柳拓監督作「フジヤマコットントン」を観て
最近、とかくアジアンドキュメンタリーズにハマっている。日本のメディアでは紹介すらされない世界の実情を知れるのはこの上ない好奇心くすぐる楽しみのひとつである。
その中で感じるのはドキュメンタリーの魅力とは何か?と言えば、自らの生活では知りえない世界を垣間見ることである。また、そこにあるのは「逃れらない今の暮らし」であり、それは業(カルマ)であり、背負いし宿命をのぞき込む行為なのだと痛感するこの頃でもある。
さて、今回の青柳拓監督の「フジヤマコットントン」である。以下、ネタバレであるのでご注意いただきたい。
「みらいファーム」という障がい者施設を舞台にしたドキュメントである。先天的な病を持つ者の逃れらない世界をどう描くのか、どう切り取るのかと思いを抱き、鑑賞させていただいた。
映画のファーストシーンは、甲府の田舎道をひとりの障がい者が歩くところから映画は始まる。これの持つ意味とは何か?それはこの時点では知る由もないが、映画の中で何度か出てくるカットでもある。私なりの解釈で言えば、「道を歩く」という行為は「人生の歩き方」であり、歩き方にもそれぞれの個性があるシーンでもある。言い換えれば「その人の生き方」のメタファーであることが想像つく。
映画の主題はそこにあるのではないか?
編み上げた生地を背景に登場する人物に字幕での注釈が入る。「○○は何々が得意である」と。それはいわば「生きがい」「居がい」を見せている。何を以って、人生の喜びとするのか?何を以って生きる糧とするのか、映像を通し、丁寧に描いている。
何か大きな事件が起こるわけではない、「みらいファーム」にとっての日常が描かれる。甲府という美しい土地と広がる大空を時折挟みながら、ちょっとした感情の起伏を紡いでいく。コットントンと。
写真を撮ることに喜びを見出す者(たつなりさん)、絵を描くことに夢中になる者(たけしさん)、花を育てることに夢中で土のわずかな変化に気づく者(けんちゃん)。そこには人としての息遣いが確かにある。これは数年前の相模原の障がい者を殺人犯が「意思疎通出来ないものは生きる価値がない」という妄言に対する強い反論のようにも見える。
映画の中でバラバラな人々の、、、という説明が入るがでもそれはそれぞれの生き方を見せるという意味であることはエンディングの集団で歩くシーンを観て、「人間ってそんなもんじゃないの?」という監督のメッセージに見えた。
映画鑑賞後、ノンフィクション作家でもある細田昌志さんを迎えてのトークショーでの話しで、わざと人の深掘りしていない演出を取ったことが明かされる。
大きな事件が起きないのがそういう狙いかという思いもあるが、正直なところ、障がい者施設における「光」に焦点を当てた演出には個人的には物足りなさを感じてもいた。すべての物事には「光と影」が付きまとうだろうという思いと、ドキュメントといえどエンターテイメントとして何かを私が期待しているからかもしれない。
家族の思い、働く人の思いというのはほとんど触れてない。また、撮影者が4人ぐらいいるだろう。撮影者と被写体である人間関係の変化が実はあまりない。ドキュメンタリーの魅力としてはその変化も楽しみどころとは思うがそこは感じることは出来なかった。複数の撮影者であるがゆえにその部分は捨てているのかもしれないが。
「光」の部分に焦点を当てたのは青柳監督の優しい人間性によるものかもしれない。作品全体ににじみ出る優しい目線が映画の核となっているのだが
私はついつい影を期待してしまう。それはドキュメントならではの魅力じゃないかとも思っている。というのも、「光」の部分を編集して見せることはそれは1週間密着したテレビディレクターでも同じ画を撮れてしまうのではないか?という思いを過るからだ。長い時間かけたからこそ、撮れた部分は
残念ながら見いだせなかったような気がする。
いや、ひょっとしてこれには続きがあるのかもしれない。フジヤマコットンには続きがある。これは序章ではないか?人としての恋する思いや自分を愛してくれる親兄弟の存在、その別れなど、誰もがぶつかる壁にぶつかった時にどんな表情を見せてくれるのか?つい、期待してしまう。青柳監督は若き映像クリエイターだ。余計なお世話かもしれないが次も期待したい。
執筆者:島津秀泰(放送作家)
Twitter:@shimazujaoriya
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