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キンコン西野が味わった地獄

このnoteは2020年7月23日のvoicyの音源、『西野亮廣ブログ』の内容をもとに作成したものです。
voicyの提供:尾張旭市のかみやむねよし さん


どうも。キングコングの西野亮廣です。

お笑い芸人をしたり、絵本作家をしたり、国内最大のオンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』の運営をしたりしております。

今日は、
「キンコン西野が味わった地獄」
というテーマでお話しします。

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先日、「ゴッドタン」で、その昔、梶原君が失踪した時の話をしたのですが、それを受けて「もう少し詳しく聞かせて」というコメントをいただいたので、今日は思い出話をしたいと思います。

ウチの相方の梶原君は失踪したことがあるんですけど、ネットで調べてみたら「2003年2月」とあります。
間違ってたらすみません。ただ、その辺りであることは間違いないです。
僕が22歳(芸歴3年目)の時ですね。

当時の状況をお伝えすると、それは、もうメチャクチャで…

僕は高校卒業して、そのまま吉本の養成所に入りました。そこで梶原君と出会って、コンビを結成したのが1999年9月。

入学と同時にコンビを組んでいる人達が多かったので、コンビとしてのスタートは少し遅れたのですが……ただ、ビックリするぐらいロケットスタートを切りました(笑)。

僕は漫才をやったことなかったし、ツッコミもやったことがなかったのですが、梶原君とやるのなら「漫才」で、やっぱり自分はツッコミを担当すべきだと考えて、さっそく漫才を書いみると、これが大当たりして、初めてやった漫才で、メチャクチャ評価されたんです。

10月の頭に「中間発表会」という、養成所生が初めてお客さんの前でネタを披露する大会がありまして、そこでは、養成所内での評価によって持ち時間が30秒から2分に振り分けられていたんですが、僕達だけ特例で3分の持ち時間をいただいて、トリを務めました。

そこでも、信じられないぐらいウケて、それを観に来ていた吉本興業の社員が、またまた特例で、翌週に控えている吉本のオーディションライブに受けることを認めてくれたんです。
これ、養成所生は出れないやつです。

10月の中旬に、オーディションライブに出演しました。
毎週50組のプロの芸人が出演して、5組ぐらいが残るのかな?
そして月末に、勝ち残った20組でネタバトルをして、上位3組が、劇場のレギュラーメンバー10組含めた入れ替え戦に参加できる。

オーディション組には、麒麟さんだったり、笑い飯さんや千鳥さんもいらっしゃったのかな…とにかく、すごい先輩方がたくさんいました。
そして、その時の劇場のレギュラーメンバーというのが、ブラックマヨネーズさんだったり、フットボールアワーさんだったり、チュートリアルさんだったり、ロザンさんだったり、今、吉本新喜劇の座長を務められているスッチーさんだったり……そういった鬼々がひしめき合っていたのですが、オーディションの一次予選、二次予選、そして劇場のレギュラーメンバーの入れ替え戦を含む、全ての回で優勝したんです。

そんなこんなで、トップで劇場のレギュラーメンバー入りしたわけですが、ここまで……コンビ結成から1ヶ月経っていないんですね。

つまり、ネタのストックも無ければ、コンビの関係性も築けていないんです。
でも、時代は待ってはくれなくて、年をまたいだ、1月。
コンビ結成から4ヶ月が経った時に出た「NHK上方お笑い大賞」という芸歴10年までのプロの芸人が皆参加する大会で、優勝しちゃったんです。

養成所生が、そういった大会で優勝するのは史上初だったもんですから、すんごい話題になって、養成所を卒業する前に、レギュラー番組が数本持たせてもらいました。
その年には関西の漫才賞をひと通り総ナメして、20歳の頃に「はねるのトびら」がスタート。
この頃には、もうスケジュールはレギュラー番組で埋まっている感じです。

……絵に描いたようなサクセスストーリーじゃないですか。

たぶん、芸人だったら、誰もが羨むような出世街道だったと思うんです。
ただ、内情は全然そんなことなくて、何がツライって、とにかく「経験」と「ネタのストック」が無い。とにかく無い!
番組の収録中や、ひどい時は劇場で漫才をやっている最中に、「その夜のネタ番組でやるネタを考える」という地獄的な自転車操業で、その上、ネタ番組では「超エリート」みたいに紹介される始末。

そこで、まだ、どこにもかけたことがない、覚えてすらいないネタを披露する……そんな毎日が続くわけがないんです。

「エリートのワリには結果出せない日々」が続いて、また、多くの芸人や芸人ファンから「なんやねん、アイツら」と妬まれていた上に、単身で東京に出ていったもんですから、相談する相手もいない。

で、3年目に梶原君が限界にきて、失踪したんです。

今だから笑い話ですが、この時の失踪というのは、いわゆる「行方不明」でして、最悪のケースが全然あった、という状況です。
このへんのエグイ話は、宣伝になりますが「新世界」という本に書いたので、そちらをご覧ください。

すぐに「キングコング活動休止」という決定が出て、僕らは、たった1日で、レギュラー番組を8本か9本…および、その他の全ての仕事を失いました。

くしくも、「はねるのトびら」も一時期打ち切りしていた時です。
(※あまり知られていないですけど、「はねるのトびら」って、一回終わってるんです。ただ、その期間に出したDVDがベラボーに売れて、それで、数ヶ月後に復活したんです)

全ての仕事を失った期間、僕はというと……この期に及んで、まだ元気なんですよ(笑)

ただ、ここで僕がピンで活動して、下手に活躍しようもんなら、もう、梶原君が帰ってくる場所が無くなるじゃないですか?
そこでマネージャーと話し合い、「待とう」と判断するわけですが、この間、下手にバイトなんかしようものなら、週刊誌に好き勝手書かれますから、それもできない。

昨日まで誰よりも売れていた奴が、突然仕事を失って、働けるのに働けないという状況に陥って…そんなのを23歳の時に経験しました。
もう、これを経験したら、怖いものなんて何もないですよ。
ドン底中のドン底なので(笑)

家にこもって、四六時中、テレビを観るんです。
「俺、こないだまで、この中にいたよな」という…泣けてきますよね(笑)何かしらのドラマにしてください。西野亮廣、いい物語を持っています(笑)

ただ、この時の経験は、明らかプラスになっていて、「仕事を失う」「スケジュールが白紙になる」ということに対する恐れが一切なくなった。
もう一回失っているんで、今ある仕事を失ったところで、元いた場所に戻るだけの話です。

それがあるから、25歳の時に、「テレビの世界から軸足を抜く」という判断ができたんだと思います。
「絵本作家として、ゼロからスタートしてみるか」と思えた。

25歳の時だから復活してから2年ですね。
その頃は、以前にもまして、もうビックリするぐらい売れているんですけど、それを失うことに一切の躊躇いがなかった。

それって異常だと思うんです。
当時の「はねるのトびら」の視聴率は毎週20%叩いているんで、普通なら、しがみつくハズですよ。
でも、そこで確信したのは、「自分には、巻き返す力がある」ということで、もう、それが確認できれば十分だった。

あそこで地獄を見ていなかったら、僕はスケジュールが白紙になることを恐るタレントになっていて、今のような毎日はなかったんです。

今は、ほぼニートなんですが、1ミリも焦らないどころか、仕事のオファーはほとんどお断りしている状態です。クソです(笑)
あの時、地獄を味わって本当に良かったなぁと思います。
でも、そんなもん、当時は分からないですよね。

なので、今、大変な目に遭っている方もいらっしゃるかもしれませんが、チャップリンが良い言葉を言っていましたよ。
「人生はヨリで見ると悲劇、ヒキで見ると喜劇」だって。
長いスパンで見た時に、それは喜劇になるらしいです。
ただし、それには条件がある。
それは「喜劇にすることを諦めない」ということです。

頑張ってね。
僕も頑張る。

というわけで、
「キンコン西野が味わった地獄」
というテーマでお話しさせていただきました。

それでは、素敵な1日をお過ごしください。西野亮廣でした。


※オンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』では、毎日、議論&実験&作品制作&Webサービスの開発&美術館建設を進めています。
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