見出し画像

「目的」と「手段」の区別がつかない人との向き合い方byキンコン西野

このnoteは2020年1月12日のvoicyの内容を文字起こししたものです。
voicyの提供:奥田 祐二さん

どうも。キングコングの西野亮廣です。

お笑い芸人をしたり、絵本作家をしたり、国内最大のオンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』の運営をしたりしております。

今日は、
「『目的』と『手段』の区別がつかない人との向き合い方」
というテーマでお話したいと思います。

『手段』が『目的』化するとは


『手段』とは、思い入れがないとか、体温がないというようにドライな言葉としてとらえられてしまうこともありますが、『手段』とはそういうことではありません。

例えるなら、「ごはんを食べる」という『目的』に対して、『手段』とは「和食だったらお箸、洋食だったらナイフとフォークを使う」というようなことです。

なので、『手段』とは別に「ドライである」という意味ではなくて、そこに体温の有無は関係ありません。

このように、「ごはんを食べる」ということに関しては、多くの人が『目的』と『手段』の棲み分けができていて、たとえ『手段』を変えたとしても、「昨日はお箸使ってたのに、今日はフォーク使ってるやないかい」と突っ込むことはありません。「食べている物がちがうから、それはそうだよね」という整理をつけられます。

しかし、僕の活動については、同じように整理して理解してもらえないことが多々あります。

キングコング西野の『目的』は、ひとりでも多くの人を楽しませることで、そのための『手段』が、最初は漫才、その次はテレビ、絵本、そして映画や舞台です。

エッフェル塔の個展にきてくださったお客さんを楽しませようと思ったら、漫才という『手段』では無理だから、絵本という『手段』を選びます。

このように、「ひとりでも多くの人を楽しませたい」という『目的』のために、絵本という『手段』を選んでいるのですが、そのときに「なんで絵本を書いているんだ!初心を思い出せ!おまえ漫才やってたじゃないか!」と言ってしまう人がいる。
実は、うちの親がそうだったりするんですけど。

これは、『手段』が『目的』化している典型的なパターンです。

人を楽しませたくて漫才を選んだはずなのに、いつからか漫才をすることが『正解』で、それ以外は『アウト』っていう線引きをしてしまう。

僕はテレビにあまり出なくなった時期に、「芸人であれば、ひな壇にでろよ」という批判を受けましたが、それも『手段』が『目的』化した例です。

そもそも、何のためのひな壇なのか。人を楽しませるためのひな壇であったはずなのに、いつの間にかひな壇にでることが『目的』になってしまって、ひな壇にでない人は『アウト』だという判断になってしまう。

じゃあ、どうして「『手段』の『目的』化」というイージーミスが怒るのかを考えてみると、大きな理由としては、『手段』が『目的』化しても乗り切れた時代があったからだと思います。

僕の親の世代では、仕事はベルトコンベア的で、そこには確固たる『正解』があって、用意された問題を解き続ければ、みんなも自分もしあわせにすることができました。

彼らは「そもそもこの手段はあっているのか?」ということを考えなくてもよかった。『目的』と『手段』について考えなくても、定年まで勤め上げることができて、家族を食わせることができました。

でも、今はそうじゃないですよね。

例えば、メルマガもあって、noteもあって、有益な情報はネットに転がりまくっている中、紙の本は昔ほど売れなくなっています。

こうなると、「紙の本を届ける際の広告手段はあっているのか?」とか、「紙の本のビジネスモデルはあっているのか?」と、『手段』を疑うことからはじめなければいけません。

どちらかというと、今は『手段』が『目的』化してしまうと、失業してしまうかもしれない時代だと言えます。

僕はその狭間にいる世代なんですが、上と下の世代を見たときに、「『手段』を『目的』化しても生き延びれた世代」と「『手段』を『目的』化してしまったら死ぬ世代」の摩擦が半端ないなあと感じています。

だからと言って、どちらにもそれぞれの正義があるので、上の世代の方を「老害」と言って批判してしまうのもあまり好きではありません。

もし僕が、その時代に生まれていたらそう考えていたかもしれないし、場合によっては、「『手段』の『目的』化」が正解になる場合だってあります。

たとえば、バーベキューとかが良い例です。

おいしい肉を食べるために肉を焼いていたはずなのに、肉が焦げちゃってみんなでゲラゲラ笑っている、みたいな。この場合は、いつの間にか食べることよりも焼くことが『目的』にすり替わっています。

なのでやはり、『手段』が『目的』化することがすべてまちがいではなく、ケースバイケースです。

でも、できるなら自分たちとちょっとちがう思想の人とも分かりあいたいじゃないですか。

そこで、ここからは下の世代の方、つまり「『手段』を『目的』化したら死ぬ」という時代の方へのメッセージになります。


ちがう思想の人とわかりあうためには


おそらく、時代の流れにあわせて『手段』をコロコロ変えることは、生存戦略としては圧倒的に正しいと言えます。しかし、そういうことをすると、「『手段』を『目的』化しても生き延びれた世代」の人たちや、その精神を受け継いている人たちから批判されてしまうこともあると思うんですね。

そのときに、「そんなことをしていたら死ぬんだ」とか「その考えじゃもたないんだ」と説明したくなる気持ちがあると思いますが、基本的に、『説明』で理解してもらうことは無理だと考えたほうがいいです。

僕自身の体験談ですが、
「いまはこういう時代だから、こういう風にしていったほうがいいと思いますよ」という『説明』をずっとしてきましたが、だれも耳を傾けてくれませんでした。

耳を傾けるどころか、何年も「イタイやつ」や「炎上芸人」という扱われて方をしてきました。結局、国民のみなさんや同業者が、何によって耳を傾けてくれるようになったかというと、『数字』です。

「西野のビジネス書がむちゃくちゃ売れているらしい」とか「西野の年収は何億円もあるらしい」みたいな。

これに関しては、ちょっと汚い言葉になってしまいますが、僕は本当にくだらないと思っています。

だって、『数字』で態度が変わるということは、「おもしろい」に反応しているのではなくて、『儲ける』に反応しちゃってるわけじゃないですか。

本来、芸人の『目的』は「おもしろい」だったはずです。

「広告費から卒業して、ダイレクト課金で生きてみたら、どういう人生のアクションが待っているんだろう。とりあえずやってみよう。」というのが、本来の芸人の姿勢だったはずですが、「儲かるらしい」で「じゃあやってみよう」となるのは、ちょっとちがうんじゃないかと、僕は思います。

でも現実は、多くの人は『数字』にしか聞き耳を立てていない。『数字』しか信用していません。
だから結局、『数字』を残すしか未来を切り開く方法はないです。

『説明』でどうにかしようとしても無駄で、わかりあうためには『数字』で結果をださなければいけない、というマッチョな結論です。

もっと言えば、下の世代がとっとと『数字』で結果を出してあげて、上の世代の疑問を晴らしてあげることが最大の和解だと思います。僕自身がやってしまっていたので反省していますが、「わかりあうためには『説明』に逃げではダメだ」ということですね。

わかりあおうと思ったら、『数字』で結果をだすのがいちばん優しい方法だと思います。

というわけで、
「『目的』と『手段』の区別がつかない人との向き合い方」
というテーマでお話させていただきました。

それでは、素敵な1日をお過ごしください。西野亮廣でした。


※オンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』では、毎日、議論&実験&作品制作&Webサービスの開発&美術館建設を進めています。
んでもって、ビジネス書に掲載するレベルのコラムを毎朝投稿しています。
興味がある方はコチラ↓




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?