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キンコン西野が泣いた日

このnoteは2020年9月25日のvoicyの音源、『西野亮廣ブログ』の内容をもとに作成したものです。
voicyの提供:プペルバスで山形のみんなに笑顔を届けたい たなかちえ さん

どうも。キングコングの西野亮廣です。

お笑い芸人をしたり、絵本作家をしたり、国内最大のオンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』の運営をしたりしております。

今日は、
「キンコン西野が泣いた日」
というテーマでお話しします。

今日は、僕が泣いた日のことをお話ししたいと思います。

 
19歳でこの世界に入って、これまで、たぶん5回ぐらい泣いているのですが、そのうちの2回について。

この2回は立て続けにあったのですが、実は、まったく同じ理由で泣いているんです。

そして、その夜の涙が僕のその後の人生を大きく変えたのですが、今日は、その夜の話をしたいと思います。

もう随分と古い話です。
 
19歳でこの世界に入って、20歳の頃に「はねるのトびら」という番組がスタートしました。

まだ何者でもない、芸歴1年やそこらの若造に、テレビ局や事務所が大きな期待をかけてくれていることはわかっていたので、同業者からの妬み嫉みの類を感じつつ、それを受け入れて、とにかく毎日、まわりのリクエストに応えまくったんです。

 
その現場現場で求められていることは何かを考えて…まぁ、未熟なもんで、結果を出せないことも何度もありましたが、それでも、毎日朝から晩までずっと走り回ったんです。

睡眠時間は1日平均2時間ほど。

僕、高校生の頃まではゴリゴリのスポーツマンで、よく食べてよく寝る奴だったので、最初は本当に辛かったです。

それでも、こんなチャンスは二度ど巡ってこないことは分かっていたので、とにかく脇目も振らず走り回った。


周りの大人が「たまには休みも必要だよ」と声をかけてくださったりして、「ありがとうございます」と返していたのですな、心の中では、「お前なんて休んでばかりじゃないか。一度でいいから、本気でやってみろよ」と思っていました。

もう、牙という牙が、自分の頬っぺたを貫いて、丸出しです(笑)

この経験値で、この立場にいるのは、やっぱり異常なことで、少しでも気を抜いたら、一気に谷底に落ちることは分かっていたので、「休む」なんて考えられなかった。

「休日」なんて何年もありません(それは、まぁ、今も変わりませんが)。
労働基準法もヘッタクレもない。

とにかく頑張ってリクエストに応えまくって、そして、応えれば応えるほど、皆、喜んでくれて、仕事も増えていって、25歳のことには番組もゴールデンに進出して、視聴率も毎週20%を超えて、そこを仕切って…「超」がつくほどの売れっ子芸人になりました。

 
現場に入って、その日の企画内容を聞いて、その日の方のゲストの方のブログを読み込んで、ゲストの方に興味をもった上で、ゲストの方をお招きして、本番が始まったら、とにかくゲストを立てる。。

その為の「死に役」になることに使命感を覚えていたし、それが上手くできた日の自分には満足もしていました。

 
そんな調子で、年間スケジュールがビッチリ埋まっていたのが25歳です。

そんな時に、何気無しに、フラッと観ちゃったものがありました。

そのうちの一つが、劇作家の後藤ひろひとサンが作られた「ひーはー!」という舞台です。

最初から最後まで、ずっとバカをやっていて、最後に全ての伏線を回収してドカーン!と終わるのですが……終わった後、出演者が皆、歌って踊るんですね。

それも、とびっきりフザけた歌と踊りです。

もう、矢印が「お客さんを楽しませる」にしか向いていなくて、その時、自分の仕事を照らし合わせてみたのですが、よくよく考えると僕は、「お客さんが求めていること」だけじゃなくて、「スタッフさんが求めていること」や、もっというと、「スポンサーさんが求めていること」をやっていて、そこで気持ちよくなってた。
 

でもでも、本来僕がやりたかったのは、「お客さんを楽しませる」の一点です。

できるのならば、どこにお伺いを立てるわけでもなく、それだけをやりたい。
しかし、それを言い出したら、テレビの仕事が回らなくなるから、その気持ちにずっと蓋をしていたのですが……ところご、今、僕の目の前で、「お客さんを楽しませる」ということに100%振っている人達がいる。


立川志の輔師匠の落語もそうでした。

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少なくとも、出囃子がなって、師匠が出てこられて、下げ囃子がなるまでの時間、そこには「お客さんを楽しませる」以外の想いや時間が1秒もなくて、それに比べて、僕はどうだ?
 

仕事としてやらなきゃいけない部分があるのは分かるけど、それが悪いことじゃないことも分かるけど……

 
でもでも、いろんな目を気にして、バランスを気にして、立ち振る舞うことに憧れて、この世界に入ったのか?と聞かれると、そんなことは絶対にない。

やっぱり僕はお客さんを楽しませたくて、ただそれだけの目的で、この世界に入ったんですね。

気がついたら、そこから随分離れちゃっていたなぁと思うと、もう泣けてきちゃって(笑)

後藤ひろひとサンの舞台と、志の輔師匠の落語の終演後、客席で涙が止まらなくなったんです。

「子供の時に憧れた世界はこれだった」と。

そんなことがあった3日後ぐらいに、タモリさんに呑みに連れて行ってもらって、そこで「お前は絵を描け」と言われて、今の活動に至ります。

ちょうど気持ちが揺らいでいる時に、タモリさんの言葉が入ってきたんですね。

3つぐらいの出来事が1〜2週間の間に集中したんです。


 
この話を皆さんがどう転用するかはわかりませんが、断言できることが一つだけあります。

僕が泣いちゃった夜、そして、タモリさんに言葉をもらった夜…その瞬間を迎えるまでの5年間、僕は誰よりも努力をしたし、リクエストにも応え続けたんです。そして結果も出しました。

サボったことなんて1ミリもないんです。
その上で、「違った」

もしかしたら、どこかで無意識のうちに下方修正をしていたのかもしれません。

まだ、サボっていたら「頑張らないと」と思えるかもしれませんが、サボってなんかいなくて、結果も出しているのに、「違う」ということもある。

だから、たくさんいろんな世界を見て、いろんな人に触れることをオススメします。


今日は【キンコン西野が泣いた日】について、お話しさせていただきました。

それでは、素敵な1日をお過ごしください。西野亮廣でした。


※オンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』では、毎日、議論&実験&作品制作&Webサービスの開発&美術館建設を進めています。
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