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守るべきファンについて〜ファンとは何か〜 byキンコン西野

このnoteは2020年10月11日のvoicyの内容を文字起こししたものです。
voicyの提供:根岸 純子さん

おはようございます。キング コングの西野亮廣です。
お笑い芸人をしたり、絵本作家をしたり、国内最大のオンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』の運営をしたりしております。
今朝はですね、「守るべきファンについて〜ファンとは何か〜」というテーマでお話したいと思います。

ファンとは何か

この番組の放送でも結構言っていますが、
やっぱりインターネットによって情報の共有が滞りなく行われるようになっ た。 つまり、これは何かって言うと、アイデアや技術のコピーがたやすくなった、っていうことですね。

どのラーメン屋さんに行ってもおいしいし、どの電気屋さんに行ってもだいたい同じ値段だし、みたいな感じ。
クラウドファンディングで立ち上げた企画アイデアって、もう大資本に狙われていて、先に形にされてしまうみたいな感じですね。

アイデアのコピーがたやすくなった。
言い方を変えると、「機能で差別化が図りにくくなった」っていうことですね。

そうなったときに、非常に重要なのは何かというと、ファンの存在です。
『ファン』っていう言い方をすると、どうしても「タレントとファン」とか「アーティストとファン」とか、芸能活動をしている人だけの言葉ってイメージ がありますが、
これは別にそういことではなくて、当然、お店のファンもそうだし、会社のファンもそうだし、ファンっていうのは、非常に重要なんです。

僕は、いろいろと整理して考えるのが好きなほうなんですけど、
「ファンって、一体なんなんだ?」
これをちゃんと定義しなきゃいけない。

ファンっていうと、ぱっと出てくるワードは「支持者」っていう意味がある。まあ、「支持者」であることは間違いないのです。 が、
「支持者」だけでは、ちょっと解像度が低くてですね。
「どの部分を支持してくれている人なのか?」まで定義する必要があると思っています。

時代が猛スピードで変わってるでしょ?
今日のような明日が来るとは限らないし、まったく予想だにしない明日が来るかもしれない。
つまるところ、場合によっては、大きな変化が求められることがある。
変化しなければ生き残れないっていうのは、なんとなくおわかりだとは思うんですけど、

そのときに、変化を応援しない人っていうのは支持者じゃないです。

生き残ろうとしているにも関わらず、その生き残る努力を応援しない人っていうのは、支持者じゃない。

現代におけるファンの定義っていうのは、「未来の自分を支持する人」である。

「過去の自分を支持する人はファンではない」と言い切る必要がある。
それは「ファンだった人」ですね。
感謝するべき対象であることは間違いないですけど、過去の自分を支持する人っていうのは、ファンとは呼ばないということです。

具体例を挙げてみたいと思います。

殺されかけた「えんとつ町のプペル」

たとえば、僕が、「今日から農家をやります!」「今日 から郵便局員になります!」と言ったところで、僕のオンラインサロンに入ってくださっている3万人(注:当時。 2020年3月現在、約4万人)のメンバーは、
「あ、また新しいことはじめたんや。」
みたいに、おもしろがってくれる。

「なにか狙いがあってやるんだろうな、次はどんなことを仕掛けてくるだろう?」みたいな感じで、おもしろがってくれると思う。

これは、西野亮廣っていうキャラクターが確立したからそうなっただけで、ちょっと時計の針を巻き戻すと、
「えんとつ町のプペル」っていう本を作るときに、これまで絵本は、ひとりでボールペンにぎって、ずっとひとりで書いてたんですけど。
「えんとつ町のプペル」っていう本を作るときに、はじめて分業制を導入し たんですよ。
ひとりで作るのではなくて、40人ぐらいのスタッフとみんなで作る、と。

クラウドファンディングでお金を集めて、クラウドソーシングでスタッフを 集めて、40人でいっせーので作ろう!っていうのを立ち上げたときに、やっぱりすごい批判の声があったんです。

それはアンチの人からの声もありましたが、これまで自分のことを応援してくださっていた方からの批判もすごくあって。
「そんなのよくない。作家性が薄れてしまう」と。
「西野さんがボールペン で書くからいいんだ」みたいなことを。

分業制で書いた作品の形、まだ見てないんだよ?
どんなものができるのか、まだ見てないのにも関わらず
「よくない」っていう判断を、自分のことを応援してくださってた方が。

変化してほしくないっていうことですよね。

自分の好きだったものの形が変わってほしくない。
さっきの話、変化しなきゃ生き残れない時代に、変化を応援しないっていう判断をされたということですね。
これは理屈よりも感情が勝ったんだと思うんですけど、気持ちはすごくわかりました。
むちゃくちゃ反対されたんですね。
反対された意見のなかで気になったのは、「作家性が薄れる」。

ずいぶん当てずっぽうな言葉だな、と僕は思ったんです。
当時、「作家性が薄れるって何なんだろう?」と思ったんですよ。

たとえば、僕の頭の中にある、まだ形にできてない映像は、色がついてるんですよ。カラフルなんです。

だけど、僕は、0.03mmのボールペン1本でしか表現する労力がない。
頭の中にある映像はカラフルなのに、キャンパスに出来上がってくる絵は白黒。
頭の中の映像は、そのまま投影されていないんです。
僕の技術がないばっかりに。
なので、色をぬれるスタッフさんを雇う。
そうすることで、自分の頭の中にある映像を、そのままキャンパスに落としこむことができるんですね。

これって、作家性が薄れているか?って、けっこう微妙なところですよね。
僕の頭の中の映像、作家性っていうのは、分業制でやったほうが、色濃く出 ているんです。
理屈でいうと、こっちのほうが作家性が薄れてないんですよ。

で、「こんなことを言ってたって仕方がないな」と思ったので、クラウドファンディングを立ち上げた。
「えんとつ町のプペル」のクラウドファンディング って、じつは2回やってるんですけど、初回のクラウドファンディングは反応悪かったんですよ。
まあ、なんとか目標金額を達成してスタートすることができたんですが、反応はあんまりよろしくなかった。

で、2回目のクラウドファンディング。
次は、「えんとつ町のプペル『光る』絵本展」っていうのをニューヨークで開催したい、っていうクラウドファンディングを立ち上げたんですね。
その時は、分業制で出来上がった絵は、もうあるんですよ。
「分業制ってこれですよ」って見せた瞬間に、みんなが「超いいじゃん! 分業制いいじゃん!」って急に支持が集まった。
これは非常に考えなきゃいけない出来事である。と思ったんです。
こういうことって、けっこういろんなところで起こってるんですね。
「えんとつ町のプペル」に限らず、会社組織でも、お店でも。
似たようなことが、いろんなところであります。

まとめ

あの日あの時あの瞬間に「分業制はよくない」みたいな声 聞いていたら、「えんとつ町のプペル」っていう絵本は誕生しなかったんですね。
世の中になかったんですよ。
その後、たくさんの人を喜ばせることになる作品が、生まれなかった。
あの声を聞いていたら。

じゃあ、
その声を発していた人はファンなのか?
っていうと、
じつは、ファンではない。っていう風に言い切らないと、その声を切り捨てることはできないですよね。

やっぱり、
ファンっていうのは
「過去の自分を支持する人」ではなくて
「未来の自分を支持する人」である。

「未来の可能性を支持してくれる人」をファンと言い切らないと、ここから生き残っていくことは非常に難しくなる。

変化するときって、これ まで応援してくれてた人の「変化を止める力」がぜったいに働くので。「変わらないで!」ってやつですね。
そういったときに、お笑い芸人だったり、ミュージシャンだったり、会社経営者だったりが、必ず持っておかなければいけないのは、この、ファンの定義ですね。

ファンっていうのは、「過去の自分を支持する人」ではなくて、「未来の自分を支持する人」である。
「過去の自分を支持する人」はファンではないと言い切らないと、変化を止める声を切り捨てることはできない。

ここをちゃんとしないと、判断が揺らいでしまうので、気をつけておいたほうがいいと思います。
というわけで、今朝は「守るべきファンについて」というテーマでお話させていただきました。

それでは、素敵な1日をお過ごしください。西野亮廣でした。

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