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禅から見た資本主義


自分の本来性を見失っていないか

禅からみた資本主義の姿について考えてみたい。
「衆生本来仏なり」という言葉が好きだ。

私たちは既に、内側深くに仏を宿しているという意味である。
ここでいう「仏」とは仏性、仏の本性であり、仏となる可能性、仏心のことと捉えていいだろう。つまり既に素晴らしい光を内包している自分なのだということだ。

これは、江戸時代後期、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師が残した、坐禅のススメ『坐禅和讃』の冒頭の一節だ。そもそも禅は自分が自分であることを問題にしてきた。「己事究明」自己の大事を究明する道である。仏陀は梵語のBuddhaの漢字音写で「覚者」、つまり本来の自己に目覚めた人、自覚者の意味である。この一節は自覚宗教として「己事究明」の根本を表したものといえよう。

「衆生本来仏なり」の衆生と仏の間にある「本来」という言葉に刮目する必要があると考えている。すると、「本来仏性を宿しているはずの私たちが、本来性を見失っていないか」、「本来性を見失い、右往左往して迷っていないか」という問いかけが迫ってくるように感じる。素晴らしい何かが既に内側にあるのなら、自分の外に探し求めて迷う必要はない。もっと安心していいはずだ。

外側との比較が生み出す代償


しかし、現状はどうだろうか。「今の自分は足りてなくて、外側にある理想像に近づかなくてはいけなくて、そのためには向上しなければならない」という向上しないと、成長しないと、置いていかれてしまう、生き残れないという風潮に翻弄されている人が多いように見える。

向上心を持つことは大切なことだと思う。向上心があるからこそ、人類としてもここまで進歩することができた。しかし、向上心の対象が外との比較に偏重していないかどうかには慎重になるべきだと考える。

ある人は、
できるだけ早く正解に辿り着こう、
できるだけ多くの効能を手に入れよう、
できるだけ多くの経済的報酬を獲得しようと躍起になり、

ある企業は、
できるだけ生産性を向上させよう、
できるだけ売り上げを上げよう、
できるだけ利益を上げようと躍起になり過ぎてはいないだろうか。

まるで、カンフル剤を打ち続けられ、死ぬまで走り続けなければならない、ラットレースの競者のように、正解と成果を求めて活動し続けなければならないという圧力に追い込まれているように見える。

「目的と手段」のパラダイムで失われたもの


外側との比較の罠に翻弄されると、分かりやすい物差しとして数字が用いられることになる。数字は客観的な指標としては納得性がある一方で、数値化できないさまざまなことを見落とすことになる。あまたある数値化できない豊かな世界が疎かにされるのはあまりにももったいない。さらに深刻な副作用として、すべてが「目的と手段」のパラダイムに絡め取られる。行為のすべては、成果という目的を獲得するための手段に収斂され、貶められてしまう。「目的と手段」の絶対視は、とても恐ろしい病理だと私は感じている。

なぜなら行為そのものを純粋に楽しんだり、味わったりすることができなくなるからだ。例えば、瞑想一つとっても、創造性と生産性がアップして、脳科学ではこういわれていて、シリコンバレーのエリートが習慣化していて・・・と次々と人々を魅了するような効用が示される。そもそも科学的エビデンスがあるから瞑想をするという世界は満たされ、幸せなのだろうか。純粋に瞑想を楽しんだり、味わったりする豊かさが損なわれ、エリートになるという目的のための一手段として吹聴されていることに違和感を覚える。

私が一つの領域としている経営学においては、ここ最近の流行だけでも、
創造的なチームになるために心理的安全性、
若手の離職率を低くするためにエンゲージメント経営、
生産性を向上するためにウェルビーイングやパーパス経営、
グローバルな市場で勝ち残るために人的資本経営などなど、
耳障りのいい言説が次々に現れては消え、目的のための手段として消費されているように見える。しかも、近年は特にアートやマインドフルネスなど、本来であれば経済活動とは距離がある領域までが、経済合理性を効率的に達成するための手段として台頭し、個人の内面にまで影響を及ぼしている。

ただ楽しむという解毒剤


資本主義のもたらした大きな成果として、急速な経済成長がある。それに伴い、成長を前提とした社会システムも築き上げてきた。しかし、現実を直視すると既に日本をはじめ、これまで経済成長を牽引してきた国々では、人口減少、労働人口の高齢化、市場の縮小と成熟の時代に入っている。GDPに代表される経済成長を人類の指標にするのは、あまりに偏狭であるといえるだろう。成長至上主義、そして強固に後押しする「目的と手段」のパラダイムは、人類に深刻な課題を突きつけている。これまでに例のない自然環境へのダメージ、大変なレベルの貧富の格差や精神と肉体の双方に及ぶ健康被害も増加傾向にある。

『資本主義の次に来る世界』の中で、ジェイソン・ヒッケルは、「生態系が崩壊しつつある時代に、総収益の4分の1近くが億万長者の懐に入るような経済活動を受け入れていいのだろうか」と問い、次のように続ける。

わたしたちは豊かな惑星に生きている。もし、すでに持っているものをより公平に分かち合う方法を見つけることができれば、地球からこれ以上、略奪する必要はなくなる。公平さは成長の解毒剤なのだ。

『資本主義の次に来る世界』

個人的な体験として、自分が小学校低学年のとき祖母からいわれた言葉が今も記憶に鮮明に刻まれている。

「ひろしちゃん、本当に大切なものはただで貰えているんだよ。
太陽でしょう、空気でしょう、水でしょう、
これを人間が作るとなったら大変だよね。」

もともと、人間が生きていくために必要なものは「ただ」だったはずだ。

禅の基本書であり、十の絵コマによって人の修行の道筋を見事に解説する『十牛図』。『十牛図』は自覚宗教としての修行のプロセスを示すものとして古来より禅門で珍重されてきた。その第八図「人牛倶忘」では、これまで信奉してきたことを手放し、第九図「返本還源」では手放した途端に広がる本来の世界が描き出される。

『十牛図』第八図
『十牛図』第九図

完全に手放すまではいかぬとも、ゆるめることはできそうである。これまで盤石と思えた「目的と手段」のパラダイムをゆるめるのである。それが経済成長至上主義の「解毒剤」になるのではないだろうか。

そのものをただ楽しむ、
そのものをただ味わう、
そのものにただ没頭する。

ただ楽しむという豊かさを思い出したい。

相互依存している世界観を生きる


仏教では人間を自然の統治者として想定していない。人間もまた森羅万象、自然の一部でしかない存在である。万物は相互に結びつき、関連し合い、どこまでも相互依存しているという哲学的洞察に基づいている。社会を自己と他者、内部と外部、仲間と敵に区別する見方、考え方ではない。

これまでのパラダイムをゆるめる。
目的獲得ありきではない行為の豊かさに立ち戻る。
相互依存している自覚のもと生きる。

そうした人が街に増えることは、次なるパラダイムの光明になるはずである。そうやってこれまでも人類の歴史は進んできたのだから。もう既にそう生き始めている人も沢山いる。『十牛図』の第十図「入鄽垂手」では、悟りの風を感じた旅人が再び街に戻り生活を始める。日常を生きる姿が周りに何かしら波紋として広がっていく。

『十牛図』第十図

最後に、鎌倉時代の曹洞宗の創始者道元の『普勧坐禅儀』の一節を紹介したい。
冒頭の白隠禅師の『坐禅和讃』と同様に坐禅のススメの書である。

「須く回光返照の退歩を学すべし」

光を自分に向け直し、自分を見つめることを学ぶべきだ。
その時、進歩ばかりでなく、退いてみることが肝要になる。

外に目を向け、よそ見していてもたいしたものは見つかるまい。心の眼を開き、本来の自分という、ただ一つを探究すればいいのである。今日というかけがえのない時を「回光返照」大切に生きることを肝に銘じたい。もう既に自分の内側に光は宿っているのだから。

参考文献
上田閑照、柳田聖山(1992)『十牛図』ちくま学芸文庫
小森谷浩志(2022)『ZEN禅的マネジメント』内外出版社
原田祖岳(1982)『普勧坐禅儀講話』大蔵出版

なお、十牛図の絵柄は小川けんいち氏に描いていただいた作品です。https://www.syoumukou.com/

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