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信じないと救われないの?

今回の地蔵会のお供物は果物中心。
毎回のお供物はなんとなくフィーリングで整えるんですが、
毎回何やらテーマがあるみたいなんですね。

果物ってどんな感じの意味なのかなーと考えてみますが、
わかる時もあるけどわかんないことも多いです。

昨日、チラッと「信じるものは救われる」と書きましたけども。

これよく聞かれるんですが、救済と信仰ってバーターじゃないです。

信じるから救われる、と解釈すると、信じないなら救わないのか!
仏のくせに!とか思っちゃうかも知れないじゃないですか。

仏さまの働きが現れるのは、仏さまの加持力と、自分の功徳力と
法界の力が一致した時。

三つの力がいい感じにガシッと手を取り合った時に結果が
現れるのは、祈願が叶う時も救済がもたらされる時も
同じです。

十一面観音さまに救ってもらえる時も
掬い上げてくれるタイミングに水槽の中でちゃんとスタンバイしてて、
掬われた後も手のひらに残るよう真ん中にポジションするとか
そういう努力をするから救ってもらえるわけです。

信じてないとまず水槽に入ろうと思いませんし、
十一面観音さまが救ってくださると思わないと
手のひらにせっかく乗っても訳もわからず
そこから落ちてしまうかもしれません。

だって掬い上げられてどこに連れて行かれるかわかんなかったら
怖いじゃないですか。

いいとこに連れて行ってくれる方だと思うから、
手のひらに乗って身を任せる訳ですよ。

信じるということは、三つの力のうち特に
法界の力を整える前提条件です。

如来の加持力は常にこちらに向かって現れようと
していることを信じる。
信じたら仏道に心寄せる衆生が増え、
その衆生は日々仏法に従って生活して功徳力を高めます。
如来を信じ仏法に則って生きる人がいれば
法界の力が整います。

そこに救済や願望成就という結果が現れてきます。

何かによって一方的に救い上げられたり
全く独力の自助努力でその境地に到達する
というのではないのが大乗仏教の救済イメージ。

相互につながり合い、影響を与え合って
救済のダイナミクスが現れます。

信仰と救済はバーターではないですけど、
信仰がないところ、薄いところには
その信仰の形での救済は現れにくいです。

一人の心を安らげるだけではなく
力が具現化するフィールドを作ることも
できるのが信仰の力。

神社仏閣などの神さまや仏さまが人に拝まれることで力を増し、
その場所もパワースポットになるのはそういうこと。

なので神社仏閣に向ける信仰の内容が
その場所の本来の傾向に沿っているかどうかはかなり大事です。

信じた方が救われやすいので、教えの内容についても
ある程度知っておいた方がいいと思います。

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