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本当の願い。

今日なんとなく窓から外を見ていたら、
なんと!家の前を猿が横切って行きましたよ!
猿!このへんで初めて見た!
残念ながら写真はないのですけど。

高野山では鹿やカモシカ、猪を見ることはありますけど、
猿はあんまりいません。
今年は山上の街中で熊が出没しているそうなので、
山の餌がちょっと少なめなのかもしれません。

先日、弁天祈願の施主さまとのメールのやりとりの中で、
「弁天さまにお祈りしていたら、『これがあなたの本当の願いですか?』と
 言われたように感じた」
ということだったのですが。

実はこれ、神仏からよく聞かれます。
私も聞かれたような気がしたことがあります。

6月15日の弘法大師降誕会の良縁祈願の時は願意について
ある程度やり取りして、イメージワークも行ったりして
お願いの趣を精査するということをしましたけども。

この時も当初の願意をけっこう修正する、ということになったり
していました。

願意をお伺いした時に、本当にこれでいいですか?
って聞き返された方が何人かいらっしゃると思いますけど(笑)

自分の持っている、叶えたいと思っている願いは
本当に叶えたい本当の願いか、というのは
何度も自分に問い直した方がいいものでもあります。

例えばですね。

高校生の時、大学生の時、会社員になった時などに
自己紹介がてらの名簿作ったりすることってあるじゃないですか。
あれに将来なりたいものを書く欄があって、私が書いたものとは
「仙人」「高等遊民」「高等遊民」。
おい。(ツッコミ)

今でもなんにもしないで遊んで暮らせればサイコーやんね
と思う部分がないわけじゃないですけど、
空気読んでこういうことは書かない!ですよね。

私みたいな自分の欲望に素直な人は別として、
普通はもうちょっと周囲や読者に忖度して受けのいいことを書くものです。

そして、仏さまや神さまにご祈願するときも
ちょっといいかっこしたお願いを書くときがあるわけです。

これは、意識してやることもありますが、無意識にすることもあります。

自分では心からそれが自分の願いだと思っています。
でも、本当は別の誰かの願いを自分のものと
勘違いしていることもあります。
別の誰か、とは多くの場合お父さんかお母さん。

本当はそうなりたくないと思っているにもかかわらず
周りから期待されるために自分の願いと思い込んでいる、
というものもあります。

これらは愛からそうしているのですが、自分の本当の願いでは
ないので叶いにくいです。
もし叶ったとしたら苦しくなってしまうことが無意識では
わかっているからです。

神さまや仏さまは、その人の本当の願いがなんなのかなんてお見通し。
でも、それをその人自身が気づいて願うからこそお力を動かしてくださる
わけです。

ここでもけっこう書いてます。

神仏が叶えてくださる願いはその人にとっての本当の願い。
そして本当の願いであってもその人のためにならないものは叶いません。

神仏に対してする現世利益の欲願が叶いにくかったり、
そういう願いをするのはいけないと言われるのは、
結局そういう願いが本当に自分が望む、自分のためになる
願いではないことがどこかでわかっているからです。

如来と同じものでできている私たちが持つ願いは、
やはりどこかで如来の持つ願いと同じ質であるもので
ある方がいいようです。

「本当の願いですか?」と聞かれた施主さまは、
よくわからないなと思っていたら弁天さまが琵琶を奏でながら
唄を歌って下さった気がしたそうですが、
心地よく寛いだ気持ちになった時にふと本当の願いに
気づくことがあるかも知れません。

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