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あることにもないことにも気づきにくいわけ。

18日に観音さまのご供養をしてたのですけど。

この日に祥鈴庵でご供養する観音さまは
以前も言いましたけど十一面観音さま。
お像はないんですけど、めちゃめちゃイメージのわく方です。

奈良博で見たステキ十一面さん、日ごろ思い描いている方とすごく似てて驚きました。

ここ最近、なぜか多くの方が
「ない」にフォーカスしがちな人間の心について書いておられましたけど。

櫻さんのブログはいつもパンチが効いててわかりやすいので
ついリブログしたくなっちゃいます(笑)
いつもありがとうございます!

解決したらそのことは忘れて、次々と違う問題にフォーカスする、
あることに感謝するのではなく、ないことを不満に思う。

ありますよねー。

喉元過ぎたらすぐ忘れて、違うとこが熱いと不平不満を言っちゃう。
何かと引き比べてあれがないこれがないとあくせくしたり、
嘆いたり落ち込んだりするけど、もうすでにあるものに対しては
たいして感謝もしない。

大難を小難にしてくれるのがいいかどうかわからなかった、という話も
以前ありました。

こちらは起こったことにはフォーカスするけど、
起こらなかったことには想像が及ばなかったということ。

この時にも書きましたけど、これみんな
「意識の外にあるものになっちゃう」
からなんですよね。

もうすでにあるものも、当たり前のようにいてくれる人も、
もうなくなった痛みも、起こらなかった悪いことも、
意識の外にあるものになったからです。

一つのことにフォーカスし続けることは実はけっこう難しいこと。
なので無意識に優先順位をつけています。
現状維持しているもの、問題とならないものは
自動的に意識の外に置かれます。

次々に新しい痛みにフォーカスするのは、生存するために
すごく必要だから。

痛みがあるということは、怪我か病気か何か不具合があると
いうことなので、それに早く適切に対応しないと
生命維持に関わるからです。

こういう仕組みになっているので、心の痛みについても
実は同じように反応します。

何かの理由でとても心に痛みを感じた時、胸が痛みますが
胸には心臓があります。
怪我や病気や不調でなくても、急所である胸が痛くなったら
その痛みも生命維持に関わるかもしれないものと判断して
対応しようとします。

生命体としては当然の反応ですが、さまざまな刺激に対して
反応し続けなくてはならないのでは心の休まる暇もありません。

痛みにフォーカスするものなのに、それがないことに意識を向ける、
目の前にあるものではなく、目の前にない可能性に思いを馳せる。
そういった意識の使い方は、人間だからこそできるもの。

あるものに感謝することを教え、
大難が小難になっていることに気づくよう導き、
過去にとらわれすぎることなく未来に進むことを示す。

意識していないものを意識化することを教えているのは
あるとかないとか、痛いとか楽だとか、
いいとか悪いとか、自分とか他人とか。
そういう区別を超えて心を自由にすることを
仏教が目指しているからです。

私たちが油断していたら嵌ってしまうわだちのようなもの、
そこから抜け出すために智慧を使う必要があります。

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