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「だが断る。」と言えるように。

今日は如意輪さんのご縁日。
12月のご縁日は全部「終い○◯」になりますので、
さしずめ今日は「終い如意輪」ですね。
あんまりこういう言い方はしませんけども。

そして冬至。
そういえば今年は柚子湯とか全然用意してませんでした(笑)

御社にもお礼参り。いつもありがとうございます!

微妙な申し出というのがあります。
メリットがないこともないし、いいこともあるような気がするけど
はっきり乗り気にはなれないというような。

まあでも、たいてい一発目で「んんーー?」と思ってしまったものって
大体うまくいかないことが多いというのも経験的にあるのですが。
直感はけっこう正しい。

でもお断りしても食い下がられることも多くて
だいたい「何でですか?」と聞かれるんですけど。

断るのに明確な理由がない時にはこの質問すごく困りますね。
もしかしてテクニックなのか?

あと、なんか論理的におかしいような気がするけど
具体的に指摘しにくい主張とか。

曖昧なものの中にある違和感をはっきりさせるのは難しいのですが、
違和感を感じた側が説明しなきゃいけない、というのが
さらに何だか納得のいかない理由のような気がします。

別に欲しくないものを売り込みされて、それいらないというと
「どうしてですか?」って聞かれるのっておかしくない?と
思うのですよ。

あと即決を迫られることも増えましたね。
「今決めないともうチャンスはない」とか
「今決められたらあなたは素晴らしい!」とか。

まあこれ、販売心理学ですけどね。

「いうこと聞かないとおいてくよ」
「いい子にするなら褒めてあげる」
って昔、駄々こねてた時にお母さんに言われたりしたと思うんですけど。
これに体感が似てると思いませんか?

いうべき時に「NO」と言えないこと、
自分の好き嫌いや感情を出す時に相手に了承してもらわなくては
ならない気がすることは、実は精神的に健康な態度ではありません。
文化的なバイアスやジェンダーバイアスもあります。

アジアでははっきりノーと言わない方がいいという価値観がありましたし
どの文化圏でも女性はこういう態度を期待される度合いが強いです。

しかし、誰かの申し出を断るというのは価値中立なことであって、
その人の評価や人格とは関係がありません。

最近「自分軸を強める」「自分軸で生きる」ということが
言われていますけども。
自分の中に行動を決める指標を明確に持っているということは
生きやすさという点から見ても望ましいことです。

評価軸が自分主体ではなくて他人主体であると
常にさまざまなシーンで他人の評価を待たなくてはならなくなります。
しかも、他人はあなた以上にあなたにとって最善のことを
知っているわけではありません。

「自灯明、法灯明」とは、お釈迦さまが入滅する直前に弟子たちが
お釈迦さま亡き後は誰に従えばいいのかとお聞きしたところ
お釈迦さまが答えられた言葉。
「自らと仏法を拠り所とせよ」という意味。

以前チラッと書いたことがあります。

お釈迦さまは拠り所にするのは自らと仏法、それ以外に拠り所はない
と言われました。

自らを拠り所にするのはもちろんだけど、自分だけでは
その軸が本当に軸として望ましい状態であるかどうかわかりません。

その時に重要なのが仏法。
自分が善くあろうとするときに、その方向性を教えてくれるのが
宗教や信仰の教えです。

普遍性と客観性のある指標があることで、自分の状態を
検証することができます。

時代性や価値観によって変化するものですが、
道徳や法律や慣習、美学などもこの指標になり得ます。

「だが断る」と言えるのは自分に対する慈悲でもあります。
断ることは価値中立ですが、
断ることができることには価値があります。

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