「この歌を君のために歌うこと」(仮)③

 真理子さんの住んでいる家は二子玉川の河川敷に歩いてすぐに行けるところに建っているよくあるタイプの低層マンションだった。1LDKの室内は綺麗に整頓されていて、あまりものがないのだけど、玄関付近の花瓶に活けてあるコスモスの微かな香りが部屋に少しだけ華やかさを添えていた。真理子さんは紅茶をいれてくれて、しばらく他愛のない会話をした。

 「さてと、ちょっと待ってくれる?」そう言って部屋の隅にあるキーボードに向かい、電源を入れた。また、机の上にあるノートPCの上にあるクリアファイルを手に取り、僕に渡した。それは楽譜だった。「実は私、曲を書いているの。例えばね、これ聴いてみて。」
真理子さんが弾きだした曲は僕が今まで聴いたことのないものだった。ベースはジャズに聴こえるのだが、ジャズというのは無理があった。ではポップスかというとそこまで一般的な感じがするものでもなかった。また何よりも特徴的だったのは主旋律と副旋律、いやどちらが「主」なのか判別がつかない2つの強いメロディーが複雑に絡みあって、時には近づき、時には全く別方向に歩きだしてしまうような展開を屈託無く繰り返すことを中心とする構成だった。マンションだから随分音を絞って演奏されていたけれども、僕には十分聴こえた。とても個性的である、と思った。

 「すごいじゃないですか…。別の曲もあるんですか?」

 真理子さんは別の曲を弾いた。前の曲よりもテンポが早く、少し突っ込むようなニュアンスが面白い曲だったが、基本的な展開は一緒だった。
「でね、この曲たちには歌詞があるんだよ。」真理子さんは最初の曲を歌詞付きで再演してくれた。つぶやくように歌われたその歌はいかにも「仮歌」のようだが、その歌詞は文学的な言い回しをアクセントに、心の中にある気持ちを何とか言葉にしたいといったことを訴えるものだった。主人公は「僕」と歌われていた。

 「謎解きをしましょう。この曲たちは随分前から書いているものもあるんだけど、あなたに会って自分として納得できる構成にたどり着いた。聴いて分かったと思うんだけど、基本的に2つのメロディーによって曲が出来ている。メロディーAはボーカル、メロディーBは楽器、まあ、ピアノなの。ポリフォニー、この手の手法はポップスの世界でも今は一般的でどんな曲にも多少は応用されていると思うけど、こんなに、そう、偏執狂的にやることはしない。うるさいし、メインのメロディーを殺してしまうのよ。」
「だけど私はあなたのボーカルに出会って確信した。あなたの歌は基本的に「受け止める」ことができるからメロディーBと喧嘩をすることはない。でも聴く人の中に無意識のうちに入り込んでいる強さもあるから、結果的に「届く」のよ。試してみる?」
 僕は歌詞つきの楽譜を渡された。実は大学に入るまで楽譜は全く読めなかったのだけど、スキャットの訓練の中で猛烈に勉強し、多少怪しいところはあるけれど、初見で何とか歌えるレベルになっていた。歌詞を一通り確認した上で、ゆっくりと歌いだした。夢中だったけど、やがて真理子さんの弾くメロディーが僕に寄り添ったり、遠くから見つめてみたり、いたずらしてきたりしていることに気づいた。歌詞は、残念ながらこの時には理解できていなかったと思う。

 「あー、出来たな。」真理子さんはつぶやいた。そして僕に握手を求めてきた。僕がうっかり「イェー!」と叫んでしまったら、隣の部屋と接している壁から「トン」と音がなった。考えたら隣の誰かは僕らの演奏のボリュームにいよいよ耐えかねていたのだろうと思う。そして隣の部屋の方向、多摩川の方だ、からは柔らかなでも毅然とした強さを持った夕日が差し込めようとしていた。

(続く)

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