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Malta Experience

逃れるように日本を離れた。

夏菜子に何も言わずに日本を離れたのは初めてのことだ。面倒でも何処に行くか、いつ帰るかぐらいは伝えるのが彼女に対する礼儀だと思っていた。

会社では少し時期外れの年次休暇の消化という名目がすんなり通ったので少し気が楽になったけど、状況としては仕事からも夏菜子からも完全に遮断のみの理由で衝動的に行動したことには間違いがなかった。

行き詰まりを感じ始めていた頃、行きつけのBarのマスターに薦められた本の中に「世界の果てを見たければマルタ島のディングリクリフに行くと良い」とあった。それが頭の片隅からずっと離れないでいた。この作者はそこで激しく孤独を感じた後に帰国、人生の転機を迎えている。単純過ぎて情けないが、ある夜それにすがるようにマルタまでの航空券を手配していた。

マルタへの直行便はない。日系航空会社のフランクフルト便からマルタ航空への乗り継ぎが往復とも最も便利であることをウェブサイトが教えてくれた。オフ・シーズンらしく想像していたより安価に手配できたが、いつもと違い人数=1だったことによる入力情報の少なさが心を突き、購入決済のボタンを押す時は夏菜子に黙って不貞をはたらいているような罪悪感がよぎった。

どうせ今や1週間に1度話すか話さないかの疎遠さなので出発まで数回それとなくかわせばもうロシア上空だ。自分に言い聞かせて床についた。

ヨーロッパはもう冬だというのにフランクフルト便は満席になっていた。僕は32Cという通路側の席をアサインしたが、32A窓側にはドアクローズ直前に大柄のドイツ人(であろう)が搭乗してきた。満席のエコノミークラスの隣に大男は不運というしかないのだが、彼は約11時間のフライト中、2回の機内食を断り、結局コカコーラを3本頼んだだけだった。お手洗いにも1度だけ。時々足が僕の方にはみ出したが経験上最も紳士的な隣席客だった。彼は日本への出張からの帰国なのだろうか、フライト中に財布から取り出して確認していたレシートには和食レストランのものが多く見られた。機内食を断り続けたのは本当は和食が嫌いだったのか、グルメなのか、真実はどうだったのだろう。

フランクフルトには定刻より少し早く到着した。マルタ航空便は到着のターミナルと同一でしかも乗り継ぎ時間は3時間もあったので余裕を持って手続きを済ませたが、出発ゲート一覧ではBのみの表示で一向に指定されない。ヨーロッパの空港ではよくあることではあるが、出発1時間を切ってもBのままであることに少々焦りを覚え何人か空港スタッフに尋ねると、B1に行け、と口を揃える。果たしてさっきまで無人だったB1では突如搭乗手続きが開始されていた。ただし表示はBのままだった。

オープンスポットでの搭乗となったマルタ航空便はLCCで多く使用されているエアバス320型機だった。シートが革張りで比較的サイズが大きいのが特徴だが、機内誌も色気がなくこれといった特徴を感じられないが、安全案内のビデオは十字軍騎士団のアニメだった。また、まだヨーロッパの航空会社に残る機内食やアルコールのサービスもあった。僕は味気ないトマトペンネを少し口にしただけで眠りに落ち、次に気がついた時には到着に向けたアプローチが開始されていた。単なる認識不足だが、日没後は都市部以外は真っ暗だと思っていたマルタ島はコーストラインや道路などの照明が島の形や生活圏を闇に示していた。小さな島ではあるが確実に人の営みがあることを感じさせた。

空港からホテルは乗り合いのシャトルで移動した。後部座席に座った2人は「左側通行って違和感あるよな」と笑っていた。マルタは1964年に独立しているがそれまで150年以上イギリスの統治下にあった。だから車道は左側通行だし、コンセントは3穴のいわゆるBF型、230Vだ。公用語も英語なので他のヨーロッパの国のようにコミュニケーションに困ることがほとんどない。ホテルに到着したのはすでに23時を回っていた。思った以上に大きい疲労感のおかげで時差ぼけに苦労することなく眠りに落ちた。

夏菜子は比較的大手のWEBデザイン会社で派遣社員として働いている。派遣といってももう10年以上勤めている関係で会社の中でのポジションは確立されていて、若手の総合職社員よりよっぽど知識や人脈を持っている。加えて美貌に恵まれていてもう40台が近いにもかかわらず若さも保っているからなのか会社で重宝されるシーンが多いようだ。

「あなたが優しいのは万人が認めるよ。でも私が求めるものとは違うのかもしれない」

助手席から諦めを含んだ夏菜子の言葉が聞こえたところで目覚めた。悪夢というのは大げさだが、しかしトラウマをつくような冷たさを含むこの言葉に返答できないままでいると、カーテンの隙間から差し込む微かな光が現実世界に引きずり出してくれた。

初日は半日のエクスカージョンツアーに申し込んでマルサンシュロックという港町と青の洞門、そして近隣の小さな村を回った。マルタの船はビビットな色に彩色され、船頭部には「Eyes of goodluck」という目玉が2つついているのが特長だ。これは古代フェニキア人がもたらしたものと言われている。マルタには世界遺産もいくつかあるが多くの観光地はそれほど勇ましいものではない。ただ華やかではないが必ず歴史的な経緯というか理由が明確にある。考えてみたら当たり前のことだが、脈絡なく都市計画が進んでいる日本では普通に感じることを忘れてしまっているのかもしれない。

滞在しているホテルにはWi-Fiサービスがあり、日本とのコネクションが容易にできてしまう。もちろん国際ローミングでお金をかければ常時繋がる訳だが、それを選択する理由もないだろう。遮断が目的なのだから。

翌日、ヴァレッタと近隣の石の神殿跡を1人で回った。マルタの起源は紀元前5000年頃と言われているが紀元前1000年頃にフェニキア人の支配となる。その後はカルタゴの支配を経てローマの支配が続くが870年から1127年まではイスラム帝国の支配下だった。マルタの食べ物の多くはイタリアとイギリスの食文化でカバーされるが、アラブのスパイスの影響があるのはここからと思われる。その後のノルマン人、スペインの支配の後、ロドス島から追われた聖ヨハネ騎士団の所領となりオスマン帝国の攻撃を撃退したことは比較的有名だと思う。それが1560年代からでその時代に要塞のように作り変えられたのが今のヴァレッタだ。1798年にナポレオン・バナパルトがエジプト遠征時に立ち寄り、腐敗していた騎士団から容易に支配権を奪い、多くの財宝は略奪されその遠征の資金源として売り渡されてしまったとのことだ。数年後にあのネルソン提督がそれを駆逐しイギリスによる統治の時代となる。

マルタの歴史はその地理的理由からに常に東西の勢力の狭間、前線、攻防地点として翻弄されてきている。古くはヨーロッパとアラブの、近いところでは第二次世界大戦時の連合軍と日独伊枢軸とのそれである。都市部を離れるとすぐに道の両端には石を積み上げられただけの低い塀とところどころそれに覆いかぶさるように伸びるサボテンが続く。それは何度も繰り返し積み上げられ、また破壊されるのを諦めて待っているように感じられる。マルタは遮る山もないため常に地中海の風にさらされている。1年の87%はWindyだ、とガイドが言っていた。

僕はヴァレッタの先端付近で風に吹かれながらその歴史を思った。おびただしい戦いと死がここに積み重なっているのを感じた。それを今、何の危険もなく過去のこととして捉えられている自分の幸せを感じた。ここに至るまでの人間の罪深さを考えると寒気がしたが、今の時代に生きていて良かったと素直に感謝していた。

(後編に続く)


#マルタ #旅日記

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