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オートクチュールな言葉の探し方

就活を意識したとき、はじめてなりたいと思った職業は「コピーライター」だった。たった一文で伝えたいことを伝えて、読み手の態度変容を促せるなんて、手品みたいでかっこいいと思った。それに、会社員なのにどこか芸術家っぽいところにも惹かれた。完全にミーハーだ。

新卒でコピーライターなんて、倍率がこれでもかってほど高いため、もちろん夢はあっけなく破れるのだけど、言葉で何かを表現したい欲は消えなかった。ただ運がいいことに、言葉を生業にする機会はあったため、コピーライティングの本を読みあさった。本に書かれているテクニックを駆使して、宣伝会議賞に何度も応募した。noteで記事を書くようになってからは、文章術の本や編集の本もたくさん読んだ。

でも、そうした技術は実は大して重要ではないのだと気づいた。武器を多く持っているに越したことないが、それだけでは上澄なのだ。手札を多く持つことを目的にしている間は、いつまで経っても胸を鷲掴みにするような文章は書けない。そういった技術を一切知らずとも、読み手に突き刺さる文章を書く人もいる。

その違いは何か。それは、ふと湧いた感情をその鉱脈に至るまで掘り続けられるかどうかだ。「面白い」とか「好き」とか、抽象度が高い単語は、海底から湧き上がって、海上に現れる気泡でしかない。その出どころを、それこそダイバーのように潜り、見つけることで、抽象的な感情を読み手に伝わるもっとも適切な言葉で表現できる。

フランスの作家、モーパッサンの著書「ピエールとジャン」の序文に、こんな文章がある。

どのような物を語るにしても、それを表現するには一つの名詞ししかない。それを動かすには一つの動詞しかない。その性質をあらわすには一つの形容詞しかないのだ。だから、その名詞なり、動詞なり、形容詞なりを見つけ出すまでは、何としても探さなければならない。

あらゆる物事には、オートクチュールのようにもっとも適した表現がある。もちろん、既製服のように大体ぴったりな言葉はあるだろう。でも、時間の許す限りそフィットする言葉を突き詰めた表現には、誰も敵わない。

たとえ気のきいたものであっても、ごまかしの助けをかりたりしては絶対にいけない。

「ピエールとジャン」では、上の文章の後に、次のような一説が続く。テクニックでごまかした文は、見ぬかれるのだ。テクニックは大事だ。だが、テクニックを使うことと楽をすることは違う。表現者は忍耐の連続だ。あぁ、もう嫌だと何百回も思った先にのみ、誰の心をも震えさせる言葉と出会えるのだ。

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