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家ジョッキと社会のルール

先日の休みに妻とお台場に行ってきた。
僕は個人的にお台場が大好きだけど、昔ほどの勢いはなくなってしまった。
それこそ大江戸温泉やヴィーナスフォートの閉店はお台場全体で見た時に手痛い出来事だったと思う。
それでもお台場が好きだったのは当の本人は嫌かもしれないが、なんだかちょいレトロなところだった。
決して汚いわけではないがどことなく漂う平成初期感が、一つ二つ上の世代のデートスポット感があって独特な浮かれ具合が僕には気持ちよかった。

お台場に行くのは随分久しぶりで、おそらくコロナが明けから始めてだった。妻とも一緒には出かけたことがなく、道中から私は少しワクワクしていた。
着いた時には小腹が空いていたのですぐにデックスに向かった。たこ焼きミュージアムがあると見て、おやつにはちょうどいいと思ったのだ。フロアに着くとビックリした。ちょいレトロなんて言ってはいたが、思いっきりレトロに振り切って、駄菓子屋からアーケードゲーム屋、射的なんかもあり昭和の楽しいを凝縮したような空間に変わっていた。
その空間にワクワクしてしまった僕たちはたこ焼きも足早に済ませて、駄菓子屋で昔はできなかった大人買いをした。そこで手に入れたのがホッピーのロゴ入りビールジョッキだった。

話は今日の仕事に移るが、今日もしんどかった。
僕の他の記事にも書いてしまったが、今日も僕の悩みはおじさん部下だった。
至極簡単な事で、社会のルールを守って欲しいという事。当たり前のルールを守り、出来ない事情があるなら報告をし、今日もできる限り目の前の仕事を進める。
僕が求めているのはたったそれだけの事だけれど、それが出来ないのが人だという事は分かってきた。

おじさん部下の1人は、在宅ワークで目上の人が出勤でなければオンライン朝礼や終礼も出ていないという事実が発覚した。
怠慢。ふざけるな。
それこそお台場の昭和レトロの空気感であれば言えたかもしれないが、今は令和真っ只中だ。簡単にはそんな事言えない。
体調やプライベートな事も気にしつつ、なんかあった?大丈夫?から一手づつ詰将棋のように事実確認をし、怒ってるわけじゃないよ。心配なんだよ。なんてオブラートに包みすぎて効きやしない薬のように、一度じゃ効かないお言葉を言わなければいけない。本当にくだらないと思う。

かと思えばもう1人のおじさん部下は、ある種の業界ルール違反が発覚。もちろん詳しくは言えないけれど、通さなければいけない申請をしたフリを繰り返し、約一年で申請漏れがあっと驚く件数に及んでいた。(今朝から僕は土下座と書類作成に追われ、なんとか事なきを得る事が出来そうだけれども…)

先にも述べたが、多くを求めてはいないと思っていた。当たり前のルールを当たり前にこなして欲しかった。僕から言わせれば口だけ生意気なおじさん達はビジネスの土俵にすら立っていない。土俵に習って相撲で言うなら、細かい技術や伝説のひと勝負の話をしたがるが、そもそもあなた達は相撲を取る資格もなく、いいから黙って稽古場の掃除とちゃんこ作りから覚えてくれと言いたいのが本音だ。でも時代も時代なので、まずは何とか僕が悪かった部分を見つけ出し、先に謝り、僕も治すから一緒に治せないかな?なんてカップルの仲直りみたいな事をしなければいけない。今の社会…やっぱりおかしいぞ…とは思う。

あまりに疲れてしまったので、今日は週二回の日課にしているジムもサボり、妻とお台場で買ったホッピーのジョッキにビールを注いだ。
最近は妻と居酒屋に行く事も少なくなっていた。でも家であろうと、缶ビールであろうと、冷えたジョッキに注いだ酒を"お疲れ様"と乾杯してから飲むその行為は、最高の安らぎだった。
ビールはいつもと同じ缶ビール。
つまみも冷凍ホッケの開きとポテトサラダ。
これが何故こんなにも嬉しく、"大変だったね"と言ってくれているように感じれたのか。
気分という言葉で片付ければそれまでかもしれないが、僕と妻の議論の上、出た結論はジョッキの重さなのではないかという事だった。

食事は美味しいのに、またまたおじさん2人が頭の中の観覧車を回り続ける。そこで"生存者バイアス"のワードが僕の中で膨らんで来た。

簡単な事だった。
朝礼も終礼も守れないおじさんは、今まで会社というものに所属した事が無く、ずっとフリーでやってきた人だった。それはやる事をやっていれば許される世界。同僚に合わせる、コミュニケーションを取る、立場関係なく円滑に仕事を進めるために安心を与える。そんなことはした事が無かった。今までそうやって生きてきたし、それで飯を食ってきたのだ。

業界ルール違反おじさんは、その業界ルールが定着する前からこの業界にいた人だった。ルールの存在は知っているし守るべきだとも分かっていたが、どこかでそのルール自体に嫌悪感を覚えていた。ただ弊社はそのルールに従う事こそ、優位に立つ手段だと考えようと10年も前から当たり前にやってきた事だった。それを嫌悪感一つで台無しにしてしまったのだ。

どうしたもんかとホッケをつまみながら重たいジョッキに入ったビールが進んだ。なんでこんなに重たいものがいいのだろうか。軽くて保冷性の高いサーモスのグラスを使えば今もこのビールはキンキンだろう。テーブルに置く時もガンっと低音が響く事もない。それでも僕らは重たいジョッキに興奮している。ひょっとしたらこれも一つの生存者バイアスなんだろうか。

今までの人生で重たいジョッキを目の前に起きた事を振り返れば僕の人生のほとんどを語れるのではないかと思う。
恋した女の子を下手くそに口説いている時も、別れ話も、同僚と口論になった時も、社長から海外赴任を言い渡された時も、プロポーズの1時間後も、いつでも僕の前にはジョッキが置かれていた。
そしてそれは特別な時間の証明だった。

生存者バイアスとかいうけど、もっと簡単に言えばそれは経験だ。僕も含めてみんな、苦い経験も甘い経験も、辛ければ辛いほど都合良く捉えては、自分が正しいかのように振る舞ってしまう。そしてそれは歳を取れば取るほど、経験が重なり、苦しいものからは目を逸らし。だんだんとそうなっていってしまうのかな。

僕はそうなりたくないな。できる事なら失敗や恥ずかしかった事を何年もかけて一緒に笑えることにしたいし。ただでさえ重たいジョッキの前で、大したことない自衛のためのプライドを背負うのは肩こりと腰痛を悪化させるだけだから捨てておけばいい。そして何年経っても僕のこの考えは変わらないでいて欲しい。

僕は枯れても重たいジョッキを妻に叱られないように音を立てず。そっとテーブルに置いた。

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