冷たいロジックへの嫌悪感

昨日の朝、レバノン人の奥さんを持つ友だちに朝イチで慌ててメッセージを送った。

というくらい衝撃的だったベイルートの爆発。衛星写真のBefore/ AfterやTwitter上の動画を見るにつけ、その破壊力の凄まじさに言葉を失ってしまった。

翌日。黙祷のあとTwitterでフォローしている田中泰延(@hironobutnk)さんが、広島県のサイトに書いた文章に目が止まり読んでみて「言葉を失う」という言葉を安易に使ったことを反省し、75年前の爆発の途轍もなさに呆然とした。

そして、あるロジックに基づいて核爆弾を落とし人を殺すという判断がかつてあったことに思いを巡らせた。

数日前「年長者というのは戦争を短期的なスタンスでしか見ていない。長期的なスタンスでミレばたとえ犠牲を伴ったとしても、大きなレジームチェンジになった場合に、悪だと言い切れるわけではないのだ。」と語った”アタマの良い冷たい若者たち”というコラムを見かけたことも思い出し、モヤモヤとした思いを書き留めておこうと思った。

かつて大学を選ぶ際に考えたこと。

「本当に、正しいは正しいのか?」という根本的な疑念が自分の中にはあるらしいです。

「1+1は?」と問われれば、多くの人は「2」と答えるだろうし、それが論理的に正しいのは間違いない。ただ、この回答者がしょーもない関西人だったらどうだろう?彼は「1+1は、田んぼの田~」などと答えるかもしれない。すると、この場合の正解は「田」になるわけである。そんな事を考えながら、人間のことや心理のことを知りたいと、校舎を上から見たら「人」の字になってる大学に4年間通い勉強したり、バイトしたり、遊んだりしてわかったことは、「人の考えてることなんて、わからない」だった。

しかし「わからない」は「ない」ではない。このあたり最近の別のモヤモヤ、いわゆる幼稚なデジタルマーケティング話や、企業内での乱暴な数字至上主義とブランディングとの戦いにつながったりするのだが、「わからない」≠「ない」のである。数値化できなければ、存在すらしてないかのように語られる局面に向き合うたび、その相手(えてして年上の偉いと言われる人だがw)に「お前、嫁さん数値化して評価してから結婚したんか!?」と叫びたくなるのを日々グッとこらえている中間管理職である。

閑話休題。

この「Aが、Bして、Cなった。よってXが正解。」的な、ロジカルと言われるものが絶対視されることへの嫌悪感が日増しに強くなってきていて最近困っているというのが、今日の本題である。「あぁ、おっしゃる通り正しいですよ。でも、それって全部ちゃんと見渡せてるんですかね?人の気持ちって、ちゃんとそのロジックとやら通りに動くんですかね?」と、混ぜっ返したい気持ちに抗えない日々を過ごしているという話。

ビートたけしさんが311の震災の後、被害者数を語るコメントに発した発言をうけ「死者2万人じゃなく、1人が死んだ事件が2万件あった」と言った。本当に自分が大事な人が死んだときの衝撃を思い、それが2万倍もあるという受け止め方。日本に原爆を落とすとか、大きなレジームチェンジには多少の犠牲がとか、その辺のロジックが正義な人たちには想像力という数値化出来ないものが欠落しているのに、そこが顕在化しないということなのかなぁ。。。

と、ここまで書いてみて自分の筆力のなさに悲しくなっているのだが、おそらくこれは今後何度も加筆訂正され、推敲されていくことだろう、いや、そういうものにしようと思い、一旦ここで終えてみよう。

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