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『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想、だいたい水木について思ったこと

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』
監督:古賀豪 
脚本:吉野弘幸 
声:関俊彦、木内秀信、種崎敦美、古川敏夫ほか
2023年|日本|上映時間:104分|PG12
配給:東映
公式サイト(https://www.kitaro-tanjo.com/

※ネタバレ有。ネタバレしかない。そしてわたしは、11月20日に初めて観て書き始めてからずっと1カ月以上かけてこれ書いている。そんで今日はもう晦日よ。なにやってんの。

 初回鑑賞後、まっさきに頭に浮かんだのは「責任感のあるきちんとした大人の作った作品を久しぶりに観たな」ということと、「鬼太郎がみんなに愛された子で本当によかった」ということだ。
 いま、大人になりきれないままで思春期をずっと拗らせているような作品や、子どもたちを軽視するもの、なんらかの理由があるのだから悪者も断罪できないというような、とにかく責任を取る人間が誰もいない物語が世に多くある中で、ありきたりかもしれないけどまっとうな大人の姿が描かれていることが今さらながら新鮮で、胸を打たれた。

 妖怪大図鑑や原作漫画など、水木しげる作品に親しんでいた子どものころ、毎週楽しく見ていたアニメの中でまだ自分とそう変わらない年齢の少年が、博識ではあっても自分を抱きしめてくれる腕をもたない、目玉でしかない父親しかおらず、人間を守るために自分の種族と近しい妖怪たちと戦わなければならないのはあんまりにもつらいだろう、まだ少年なんだし母親だって恋しかろう、と勝手に胸を痛めていた。
 だから、あんなにも恐ろしい目に遭わされながらも、母親に身をもって愛され、一族のみんなに大切に守られている赤子の鬼太郎が描かれたことで、あのころわたしが心配していたあの鬼太郎の出生がこうだったならばよかった、とすこしほっとした。
 今作では、個人的にずっと胸の奥で細々と抱き続けてきた思いが時を超えてつながった感覚があって、思い入れがとても強くなってしまったけれど、それを別にしても、この作品は次につなぐための物語だと思う。

 次につなぐための物語とは。
 美しい未来を口先だけで語ることはかんたんだし、それをして次世代へのバトンと言うものも無数にある。それなのに、この作品に強く「次につなぐ」ことを感じたのはなぜか。それは、終盤のゲゲ郎のセリフにもあるように、美しくも素晴らしくもない現実を作り出してしまった大人が、自らの非をきちんと認めたうえで、それでも、こうあってほしい人間の姿を誠実に伝える作品だったからだ。
 悪い者は悪いし、醜悪な出来事を引き起こした奴は「ツケは払わなきゃ」いけない。引き起こした悪事は忘れられたり誤魔化されることはない。
 そういう物語が、「鬼太郎」という長年続いてきたシリーズ作品の劇場版で、大人から子どもへのメッセージとして作られたことがすばらしいと思う。

 本作の登場人物には「忘れない」ように、なにかを「伝える」役目を負っている者が多い。なによりも、この映画作品そのものが、水木しげるというひとりの作家が生み出した、魅力的なキャラクターや物語、とくに原作者の思想やその人となりを、「忘れないように伝える」ことに成功している。実際、この映画をきっかけに水木しげる作品に手を伸ばした人も少なくないだろう。映画のヒットも相まって、原作者そのものを広く知らしめる、完璧な形の生誕100周年記念作品になったのではないだろうか。

 当たり前のことだが「忘れない」ために心を砕くのは、人間がそれをすぐに忘れるからだ。忘れてしまうのは、現在の有り様から変わってしまったり、関心を失ったり、存在そのものがなくなってしまうからだ。
 なくなってしまっても、忘れないために、振り返るために。人間は、写真や映像に遺す。文字として書きとめる。口伝えに伝えていく。

 冒頭と終盤に登場する雑誌記者、山田は、生ける都市伝説として鬼太郎に取材し、次号廃刊予定の雑誌の特集記事にしようと躍起になっている。
 物語の終盤には、目玉の親父がインタビューに答える形で、自分がかつてゲゲ郎と呼ばれたとき、この村で何が起こったのかを語りはじめる。これはもちろん、直接の口承だし、山田の仕事も廃刊になる(=なくなってしまう)とはいえ、その前に雑誌という大衆が目にする媒体に遺し、読者に対して「忘れないように」「伝える」存在となっている。

 鬼太郎は、最後の一体となった狂骨である時弥の「忘れないで」「僕、ここにいたよ!」という悲痛な叫びに静かに応える。時弥のことはもちろん、哭倉村で起こったことはすべて父から聞いて知っている、「忘れないよ」と。この後、鬼太郎もまた誰かに伝えるのだろう、自らの出生にも関係する物語を忘れないために。

 そして、本作の主人公のひとり、ゲゲ郎こと目玉の親父が、いまを生きる息子である鬼太郎や、記者の山田に昔語りをするのはもちろんだが、そのほかにも、見えないもの=妖怪の存在を語り、実際に見せて「忘れていた」男に「伝えた」。見えないものも、在るのだ、と。

 本作は、その「伝えられた」ほうの男、もうひとりの主人公である水木の視点で、舞台となる哭倉村と龍賀一族の謎に迫っていく展開となる。だから当然ではあるのだけど、水木は他の登場人物に口伝えをする事柄をあまり持たない。しかし、彼はその存在と姿勢で多くのことを「伝える」。
 水木がたびたび見る悪夢や、フラッシュバックする戦地での出来事は、彼のここに至るまでの十年間がどんなものだったか、観客に「伝える」。創作作品の登場人物である水木を通して、日本という現実にあるこの国がかつて実際に体験した戦争のありさまを。
 原作者の故・水木しげるは、兵役について左手を失い、帰国して紆余曲折の後、漫画家となった。もちろん、劇中の水木が左目と左胸に傷を負い、左耳が欠けているのも原作者に重ねてのキャラ立てをしたからだろう。
 水木しげるは「昭和史」や「総員玉砕せよ!」といった作品で、たびたび自身の戦争体験を描き、それがいかに悲惨で、無意味かつ無益なものであるかを語っている。今作の戦争描写はかなり断片的ではあるけれど、水木は、その原作者の思いが描かれた作品まで、まだたどり着いていない観客に「伝える」窓口となる役割を担っている。

 ようやく生きのびた戦争で一切を失い、自分の才覚だけを頼りにのし上がろうとする水木だが(実際、彼が哭倉村に行ったのも昇進につながると踏んだからだ)、取引先相手の龍賀製薬社長である克典に、一人娘である沙代を嫁にやろうと政略結婚を提示されても言葉を濁し、当の本人に淡い恋心と強い決意を直接ぶつけられても「あの年頃の子の気の迷いだ」と切り捨てる。
 ここで水木が揺らいでしまうと物語が立ち行かなくなってしまうから当然とはいえ、いまは創作の中でも現実社会でも、まだ十代の少女に成人男性が手を出す話なんてどこにでもある。男性側の出世欲にかかわるとなればなおさらだ。だが水木は、たとえそれが自分が他者に愛情を抱くような余裕がないだけだ、という主張があるにせよ、成人男性としてまっとうな倫理観を見せた。その一方で、次々と親族が死んでいくことに恐れを抱く病弱な時弥に、当時明るい未来の象徴であっただろう東京タワーの話を聞かせて、励ましてやる。
 幼い時弥を年長者として思いやり、沙代を自分の出世欲のために利用しようとしてもしきれない水木は、まっとうな大人そのものではないか。
 これは、まだ子どもだろうが血縁があろうが関係なく、私利私欲を成すための道具として使い捨ててきた時貞とわかりやすい対比になっていて、だからこそ、水木を通して正しさを容易に掴むことができる。

 そしてクライマックス、国が亡びるほどの危機を救うために「わが子の、そして友がこれから生きる世界を見てみたくなった」と、ゲゲ郎がその身を挺して未来をつなぎ、水木もまた、やさしさから出た行動の結果として、いっさいの記憶を失ってしまう。
 ここまで伝える事柄を持たなかった水木が、見えないものを見、孝三の日記を読んで龍賀一族の秘密を知り、あれだけ壮絶な体験をし、語るべきすべてを得たとたん、あろうことか全部忘れる。
 そしてここからの「墓場鬼太郎」の第一話をなぞらえたエンドロール以降、「墓場」履修済みの人間には非常に胸熱な展開になる。原作で何気なく読んだ、追ってくる幽霊族の大男を不気味に思って水木が逃げているだけのコマが、記憶をなくした水木を負うゲゲ郎の姿へと読める新たな意味が生まれ、せつない。同じく、埋めた幽霊族の女の墓から生まれ出た鬼太郎に対して「化け物の子は生かしておいてはいけない」と葛藤する姿は、原作と変わらないはずなのに、いっそう深みを増す。

 ここまで、多数の人物によって忘れないように伝えるべく紡がれてきた物語は、記憶が戻らないまま赤子を抱きしめる水木の姿を描くことで、いちばん本質的な人間の姿を伝える。
 それは、あのときの沙代から寄せられた恋慕を大きく超えて、次の世界を作るひとつの小さな命、子どもという希望を救い、つなげていくという運命にめぐりあった姿だ。


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