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「完全な嘘」 23'0112の日記

※長らく下書きに引っ込めたままの記事だったけど、なんとなく公開してみる。慣れないお酒を飲んで泥酔した僕が、友人に語っていたらしいことを覚えている範囲で纏めたもの。


コミュニケーションの非対称性について。

・先に何が言いたいのか纏めておくと、人間は完全な嘘をつくことができるのに、僕たちはごく自然に信頼や親愛を他人に抱くことができる、その事実が不思議という話。

・「完全な嘘をつくことができる」と書いたけど、正確には「ありとあらゆる感情の伝達はすべて"完全な嘘(≒真偽不明)"になってしまう、そういう仕組みになっている」という事が言いたかった。他者の内心が読めない以上、『あのときあなたはこう思っていた』の答え合わせは不可能だと思う。本人の口から答えを告げられようと、それそのものが正しいかどうか、正誤の判定ができないからだ。

・「人の心なんかわからない」というのは真だけど、そんな周縁をペロッと舐めるような語彙で語るべきイシューではない気がする。もっと言葉を尽くして論ずるべき、グロテスクで絶望的な断絶があると思えてならない。

・例えば、僕があなたに「実は祖父がロシア人で、僕はクォーターなんだ」という嘘をついたとして。あなたはその場でそれを信じたとする。その後、それが嘘であるとバラさずに二度と会うことが無かったら、それは「完全な嘘」になりうる。あなたは僕がクォーターだと思いこんだまま死ぬか、あるいは嘘だと気づかないまま忘れ去ってしまう。

・悪意が無くても同じことは起きる。あの人は暖色系が好きだと言っていたが、オレンジ色だけは例外的に嫌いかもしれない。あの人は海藻が苦手だと言っていたが、海ぶどうだけは例外的に好物かもしれない。そして、自分がそれらの事実に気づく機会は一生無いかもしれない。例に出したのは日常的な勘違いの範疇だけど、もっと深刻なシチュエーションで致命的なすれ違いだって起こる。

端的に言えば「思い込み」の話である。

・僕たちは状況証拠のみを以て他者の内心を計っている。確証を得る手段が原理的に存在しないけど、保留にもできないから仕方なく・暫定的に・真偽不明の・ただの感想を、「仮に」当てはめているだけだ。これは普遍的な事実だと思う。にもかかわらずあたりを見回してみると、「確かな愛」「分かりやすい情」「見え透いた嘘」で溢れかえっている。それが悪いことだとは思わない。そうでもしないとやってられないから。

・これはとても恐ろしいことだと思う。僕たちは生まれてから死ぬまで、誰一人とも心を交わすことがない。錯覚だとも思わず、あらゆるものを見落として、何もかも誤解して、その事に気づかずに死ねてしまえる。そういう構造になっているから。

・ここまで疑ってもなお、僕の中にもそういったもの(他者の内心が読めるという錯覚)はあり続けている。とすると、これは脳のエラーではなく機能なのかなと思った。

・そもそも、言うまでもなく「心を交わす」なんて現象は存在しない。それは誰かが勝手に作った宗教観で、人間はそんなフィクションの領域に到達できていない。科学が発展して脳と脳とつなぐ通信ケーブルみたいのが発明されたら別だけど。


ここまで書いたけど、この文章はすべて無為である。なぜなら実質的に何も言ってないのと同じだから。AをAと言っているだけ。それでも、きっと誰にも読まれないこの場所で、泣き言を言いたかったのだ。

・人間には五感があるが、「錯覚」もそれに加えて良いほど重要なスキルだと思う。その欠落……目に見えない物/事にリアリティを感じられない、「錯覚障害」というものがありうるのではないか。もちろん、既存の精神・心理学の範疇なんだろうけど。

・願わくば、自分にはまだそれが残っていると信じたい。あるいは、この喪失感こそが錯覚であって欲しいと思う。


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