(まとめ)シューホフ 1-7「戦艦における双極面構造」
双極面構造およびシューホフによる軍需品との関わりについて
戦艦インペラートル・パベル・アヅィン
1903年に建設が承認された初期の前弩級戦艦(戦艦の初期の形態)のロシア帝国海軍アンドレイ・ペルツヴァニー級インぺラートル・パベル・アズィン(Серия Император Павел I)には興味深い技術が使用されていました。元の計画では1.8メートルの3軸双曲面ラティス・タワーによる簡素な帆柱(マスト)が天部2.4メートルと底部3.7メートルの楕円形の高さ24メートルがつくられました。1916年冬から1917年にはタワーがあまりにも目立ちすぎたので、インペラートル・パベル・アズィンが半分の高さに、アンドレイ・ペルツヴァニーが約75パーセントにまで高さが短縮されました。また日露戦争の影響はシューホフにとっても衝撃であり『戦争中のロシアと日本の艦隊の軍事力』というタイトルで1907年にフジャコフの著作のなかで露日双方の戦闘能力について総括しています。
アメリカの戦艦における双曲面マスト
これと同様のものはアメリカでも建設され、現在ではロシアのものはアメリカの発明の模倣であると考えられており、プレスタン(Prestan)も、この格子型のマストは、ロシア人によって2度にわたって模倣されたアメリカ船のマストであると主張しました。しかし、実際には計画も運用もロシアのほうが先行していました。フリードマン氏は米国の造船業界における優れた専門家として米国海軍の格子マストの開発について報告しています。1905年〜1906年に、アメリカの海軍事務所は、艦橋構造物を含む既存のすべての戦闘用マストを一組の低重量の格子マストに置き換えることを提案していました。海軍事務所は基礎の直径が約1.2メートルの既存のマストの価格を維持していた。1909年にはUSSミシシッピと1908年にはUSSアイダホにも格子マストが取り付けられました。(高さ28メートル、最大直径6.8メートル、最小直径3.25メートル)これらは1914年にギリシャのキルキスとリムノス島へと売却され、1941年まで使用されました。また米国はアルゼンチン海軍のために弩級戦艦リバダビアを建設し、これにも格子マストを採用しました。(高さは28〜31メートル、底部直径4〜8メートル、上部直径は2.5〜3.5メートル)マサチューセッツ大学教授でアメリカ海軍司令官ウィリアム・ホブガードは「砲火に非常に耐性がある可能性が高い独創的で理想的な構造」であるとしてこれらのマストを評価しています。
しかしロシアのものとは異なり、アメリカの格子マストは円形の断面をもっていた。これにより進行方向の風荷重に対する脆弱性を有していました(ロシアの格子マストは断面が楕円形であり、向かい風に対して耐性があった)。1918年にUSSミシガンは船体横方向からの風に脆弱であったために倒壊した可能性が指摘されています。アメリカが格子マストから撤退する理由になったのは、まさにこれが原因で、ミシガンのマストは嵐の中で暴風雨にさらされた結果、その一番、細くなっているところから破断し、倒壊しました。マストの頂点にいた2名は無事生還したが、この事件はこのマストの耐性について大きく疑問を投げかけられることになりました。1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結されると、こうした格子マストを有する戦艦は次第に数を減らしていきました。さらに、これ以上に高いマストの開発は1950年代後半までニューヨーク・イーストリバーに架かるブルックリン橋の高さ制限により、行われなかった。米国にとってはパナマ運河における長さと幅の制限もあり、海軍の船舶の規格は厳しく制限されました。
ドイツにはマンネスマン法(刳り貫き式の鉄製パイプの製造法)によるシームレス・パイプの生産が1885年以来からあり、1888年には米国で特許を取得している。この技術により高品質な鋼管が製造されるようになりました。そしてマンネスマン法によるシームレス・パイプは米国とロシアでほぼ全面的に市場を確保しました。このシームレス・パイプが普及するにつれ、双曲面マストの需要は減っていきました。さらに煙突から出るガスは潮風による腐食を早め、構造に致命的な損傷をもたらしていました。また、そもそもマストそのものが不要になり、艦橋(航海および戦闘指揮所としての機能をもった戦艦の部位)へと置き換わっていったのも廃止の主な理由となった。
1910年以来、バリ社はまた、戦争用機械の建設を請け負うようになりました。ロシア帝国は地中海へのアクセスを求めて、軍事物資の生産と輸送を必要としていました。シューホフも重砲のプラットホームや機雷障壁の敷設についての開発を行っています。
結局のところ、ラティス格子のマストの起源は正確には明らかとなっていないが、シューホフのラティス・タワーが1895年に特許取得され、1896年には展示公開までされています。そのことはすべての双曲面構造に先立ってなされており、米海軍がなんらかの方法でこれを聞きつけて情報を入手し、原理を応用した可能性は否定できません。しかし、まったくの偶然の一致という可能性も否定し難いのもまた事実です。
[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.
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