私の40代とこれから〜50歳を機に
ご無沙汰しています。すっかりこっちに記事を書かなくなってしまいましたが、元気でやっています。
全く個人的な話で恐縮ですが、もう1ヶ月近く前、10月16日が誕生日で50歳になりました。
半世紀生きてきたということになるわけですが、もう一つは40代が終わったということでもあります。
と言うわけで、終わったばかりの40代という10年を自分史の中で位置づけ、振り返ってみたいと思います。全く個人的な話で、誰かの参考になるとか全然考えていないのであしからず。
誕生日直後に公開したかったのですが、本業に忙殺され、ちまちまと書き重ね、ようやく公開です。
前史 30代まで
いきなり40代云々言われてもあんた誰?という話なので簡単に30代までを振り返りたいと思います。
10代まで
子供でした。以上。
で終わってもなんですから、ちょっとだけ。横浜市中区で生まれ、横浜市内や調布市を転々として、横浜市南区に定住したのが小学2年。その後地元の小中高を卒業。
科学者になりたいと思い、理系に。最初早稲田大学理工学部に入りましたが、東大でないと科学者になれないと勘違いし、翌年東大に。20歳になったのは大学一年の時でした
20代 研究室追放と医学部学士編入学
20代は科学者を目指す学生で、理学部生物学科動物学に進学。
しかし全くうまくいかず。卒業研究の臨海実験所では大学院生の先輩に「死ね」といじめられ、博士課程2年の時に研究室追放。趣味の登山のザイルで首括ろうと思いましたが、一念発起し、医学部の学士編入学試験受験。なんとか合格。神戸へ。
生化学若い研究者の会に入ったり、立花隆氏のゼミを手伝ったりと、今に至る活動の原点を得たのも20代。
30代 2度目の研究室追放と科学ジャーナリスト賞
30歳になった直後の2001年11月。Nature誌に日本の奨学金制度の問題点を書いた投書が掲載。その直後研究室追放。
この経験から組織を作ろうと思いNPO法人を立ち上げます。30代の終わりに分裂し、追い出されてしまうのですが…。
本を書いたりイベントを開いたりして活動。39歳の時には「博士漂流時代」を記し科学ジャーナリスト賞2011を受賞。「活動家」としての方向性が定まりました。
そんなこんなで40代に突入。物語はここから始まります。
40代物語
専門医としての40代
まずちょうど10年前、2011年のことを振り返ってみましょう。
震災という大きな出来事があったあの年、40代になる直前、私は赤穂市民病院から近畿大学に異動しました。
赤穂の最終日が病理専門医試験の日で、その翌日から近畿大学に勤め始めました。40代が始まったのが、近畿大学に来て2ヶ月半経った時。誕生日から2ヶ月後には細胞診専門医試験を受け、無事合格。40代は2つの専門医を取得して始まったことになります。
医学部に学士編入学をして入ったので、40代からようやく専門医としての第一歩というのは遅いですよね。でもそれは仕方ありません。40代を専門医として過ごすことができ、自分の専門性を社会に役立てることができたことは嬉しく自信につながりました。
いろいろな事情で専門の臓器を持つ事はなく、平均点の病理医として過ごしたことになりますが、ジェネラルな病理というのも、悪いものではないのかなと思っています。
専門性がないから、縛られずにいろいろな働き方ができたわけです。のちにフリーランスになるにあたり、専門性がないことが有利に働きました。
仕事ができること、やりたいこと、求められていること、この3つの兼ね合いで決まると言っても良いでしょう。私の場合、専門性がないことで、求められていること=ニーズを重視した職場選びをすることができました。
別れの40代
40代ともなれば親も高齢化してくるわけで、健康問題などが生じる時期でもあるでしょう。
ご多分にもれず、私も家族の健康問題に直面しました。
40歳の時、父が急性心筋梗塞で他界しました。寝ている間に心臓が止まり、誰にも看取られることなく逝った父。
そして同じ年、あとを追うかのように、90歳だった祖母も他界しました。
これで父方、母方の祖父母4名が全員鬼籍に入ったということになりました。親世代も母を残すのみ。詳しくは述べませんが、40代後半には母の健康問題も大きな課題になりました。
もう一つ悲しい別れがありました。
親しい友人であった横山くんの死です。
様々な活動を共にしてきた同士と呼べる存在であった横山くん。その付き合いはもちろんいつも平坦というわけではなく、時に彼の言動に困惑することもありました。
しかし、彼が活動の傍らにいた事はとても心強く思っていました。
そんな彼が突然いなくなってしまった…。
心にぽっかり穴が空いたような感じは、今でもしています。
同じ学年だった横山君が生きられなかった50代。彼の分も充実した生き方をしなければならないと強く思っています。
メディア露出の40代
39歳のときに出した「博士漂流時代」で科学ジャーナリスト賞を受賞していたことは書きました。おかげで40代のうちに数冊の本を書くことができました。
これがきっかけになって、新聞や雑誌などにコメントや意見がより多く掲載されるようになりました。
それは30代の活動を継続したことになりますが、40代で大きく変わったことといえば、テレビやラジオへの出演機会が増えたことです。
きっかけは2014年のSTAP細胞事件。旧知の記者の方からの紹介で取材を受けた毎日新聞の記事がきっかけとなり、新聞雑誌のコメントオファーが殺到。そしてテレビ、ラジオからの出演依頼も来るようになったのです。
正確には数えていませんが、2014年には30回くらいはテレビに出たと思います。基本は関西ローカルの情報番組などですが、バラエティー番組への出演もありました。
最初は緊張しまくりましたが、次第に慣れてゆき、特に緊張することもなく喋ることができるようになりました。普段テレビはあまり見ないので、「テレビは見るものではない、出るものだ」と冗談混じりに嘯いたことも(嫌なやつですね…)。
STAP細胞事件の報道が下火になるにつれ、出演機会も減っていきましたが、それでも年数回は出演するようになっています。2018年には近大メディアアワードという賞(3位でした)もいただきました。
だから何、という話でもありますが、人々に私の考える様々な問題を知ってもらうきっかけになると思って概ね出演依頼は引き受けています。
独立の40代
近畿大学の教員として始まった40代。教員といっても研究ではなく、病理診断が中心の実務家教員的なものでしたが、学生教育に携われたのは貴重な経験でした。
途中から研究倫理教育の仕事も加わり、それなりに充実した日々を過ごしていたのですが、大きな転機がありました。
2018年、ほぼ同世代の40代の研究者が自ら命を立つという悲しい事件が報道されたことです。
就職氷河期世代、ロスジェネ世代である同世代の方々の苦境が胸に突き刺さり、なんとかしなければと思い続けた40代でした。
「博士漂流時代」がきっかけとなり、文部科学省のポストドクター・キャリヤ事業の評価委員になりました。また、総合科学技術会議(当時)でお話するなど様々な機会をとらえて、研究者のキャリア問題を訴えました。
こうした機会を通じて、問題を訴えることももちろん重要だったと思っていますが、自分自身は大学教員でありながら、評論家のようにこうした問題を論じるのはどうかと思い始めていたのです。
そんな矢先の研究者の自死。
自分自身が大学教員という安定した地位にいるのは許せなくなり、大学を辞めることにしたのです。
2018年にはかつて追い出されたNPO法人の思いを引き継ぐ一般社団法人カセイケンを立ち上げており、大学を辞めても活動を続ける器は作っていました。そこで、まずは以前勤めていた赤穂の病院に勤務することにして、在野で活動しようと決意したのです。
フリーランスへ
2019年度の1年間は、赤穂で過ごしましたが、結局は公務員という安定した地位で良いのか、という思いもあり、2020年4月からは、フリーランス病理医となりました。その経緯はすでに書いた通りです。
フリーランス化の時期が新型コロナウイルスの感染拡大と合わさり、一時はどうなるかと思いましたが、大手(大学病院など)が目を向けない部分に特化したことで、幸い仕事は引く手あまたでした。後述しますが、ちょっと肉体的には大変ではありますが。
そして今、私は様々な病院に非常勤で勤務し、病理診断を行うことで、医療に貢献しながら収入を得ています。その傍ら、Yahoo!ニュース個人を中心とした媒体に記事を書き、講演などをしながら博士号取得者等のキャリア問題や科学技術政策をウォッチする活動も行っています。
40代最後の年に岩波書店から出た「アカデミアを離れてみたら」に企画から協力し、あとがきを書かせていただきました。この本はまさに私がやりたかったロールモデルの紹介をする本であり、この本にかかわることができて本当によかったです。40代を締めくくるのにふさわしい本だと思います。
50代の展望
50代の私はどうなるのでしょうか。
これまで書いてきたとおり、自分ではどうしようもない偶然を生かし、今までの人生を歩んできました。ということは、予想などできるはずもありません。クランボルツの「計画的偶発性理論」を心に生きていくと思います。
ただ、40代の時にいくつかの仕掛けをしており、その仕掛けをもとに進んでいくことになりそうです。
仕掛けの一つはフリーランス化です。個人事業主と一人合同会社の二本立てでのフリーランス化。これにより定年を考えることがなくなりました。
病理診断や執筆等の仕事があればやり、なければさようならのシンプルなジョブ型を続けていくと思います。
今病理診断の仕事は、病院などに行って行なっているので、体力的にきついことは述べたとおりです。ただ、そう心配してはいません。幸いにも遠隔病理診断やAIを用いた病理診断が急速な進展を見せており、機会があれば積極的に取り入れていきたいと思います。そうなれば移動時間は減るからです。それまで生き延びられればいいのですが…。
そして、この生き方を一つのロールモデルに、同世代の氷河期世代が生きのびていくための活動を行なっていきたいと思います。これは一般社団法人カセイケンを中心に行います。
政府はもはや若い人優先ですし、若い人たち才能をのびのび生かすことが社会にとって重要だと私も思います。一方で、私たち氷河期世代はこれからも生きていかねばなりません。
社会の状況を変えられず、あまりにも無力で何もできていないという思いも沸きます。しかし、あきらめずやれることをやっていきたいと思っています。
個人の人生に関しては、50代になりもうこんなに歳をとってしまったとか、あの時ああしてればよかったといった後悔の気持ちはありません。今まがりなりにも社会に居場所があり、職があるのですから、嘆くのは贅沢だと思います。
他人と比較してしまえば、あの人は教授になったのに、とか、あの人は有名になったのにとか、キリがありませんよね。私の知り合いの中にも、端から見れば地位も名誉もあって十分立派な人なのに、後悔というか、満足していない人も多くいます。
そういう気持ちが向上心につながれば良いのですが、妬みがマイナスの方向に向かってしまう人もいて、それはいけないですよね。
比較すべきは過去の自分。目指すべきは自分史上最高。これが幸せへの道かなと思います。
うだうだ書きましたが、今後ともよろしくお願いいたします。
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