『映画大好きポンポさん』の脚本

撮るべきはB級

この映画が始まってすぐ違和感を感じたのは、以下の場面である。
車内でポンポさんとジーン(映画監督)が話をしている。そこで、ジーンはポンポさんに、どうしてB級映画ばかりを撮るのですか?と質問する。それに対してポンポさんが、A級で泣かせるよりB級映画で泣かせるほうがカッコいいでしょ?と言う、という場面である。
そうであれば、ジーンはポンポさんの言葉を胸に、B級を撮ってA級を上回る……という物語を予想するのが自然ではないか。
その過程でジーンはポンポさんの言葉の本当の意味を理解し、B級、A級に共通する大切なものを発見する、というのが王道のストーリーであり、そう進むことが予測される場面ではないだろうか。
しかし、こうは進まない。ジーンはなぜかこの後にA級映画を撮るのである。なぜ上のような会話が挟まれたにもかかわらず、ジーンがA級映画を撮るストーリーになるのだろうか。

手駒はむしろB級

映画撮影が始まったときに監督の手にあったのは、ナタリー(新人俳優)とマーティン(ベテラン俳優)、そしてその後の展開で明らかになるように、ワンシーンを撮り直すには足りない予算である。
普通に考えれば分かることだが、演技経験がない俳優をA級映画の主演にすることはあまりない。興行的にも実力的にも危険だからである。
また、一点豪華主義でベテランが入るのはB級の特徴である。俳優のネームバリューで話題になり、その実力で、その他の俳優の演技の不安定さや、脚本の弱さを補うからである。
さらに予算不足はまさにB級の宿痾とも言える。
しかし、ジーンの撮っていた映画は、指揮者の失墜とその再生、という、いかにもA級のテーマである。このテーマを扱っておいてB級映画ということはないだろう。
わざわざA級を撮るストーリーにするより、むしろB級を撮るストーリーに親和的な素材が用意されていたと言えるのではないだろうか。

ポンポさんの不自然さ

この映画におけるポンポさんというキャラクターの立ち位置を考えれば、不自然であることはむしろ自然であるとも言える。しかし、そうだとしてもおかしいという点がある。
この映画の設定によれば、冒頭に説明されるように、ポンポさんが身を置いているのは、生き馬の目を抜くとされる映画業界である。そこにおいて祖父から、コネクションやら何やらをすべて相続することが本当に可能なのなのだろうか。
描写されているところからすると、財産以外の無形のコネクションのような物まで含めた引き継ぎを承認してくれるほど、甘い世界ではないのではないだろうか。
また、仮に引き継いでいたとしたら、後半の資金が不足するシーンはおかしいということになる。そのような、映画業界に名前を知らないような人はいない、というような人物に、金を貸さない銀行はないからである。
映画に金を出すのは危ない……というような台詞があるが、そこまでの人物ならためらう必要はどこにもない。
ましてや、問題になっている額は、映画全体を撮り直すような規模の、ポンポさんをもってしても弁済が危ぶまれるほどの額ではない。ワンシーンを撮り直すだけの額にすぎないのだから、銀行としてはむしろ貸したがるのが普通だろう。
そもそも、祖父から引き継いだ物の中に、銀行関係者とのコネクションがあってもよさそうなものだが……。
一つあるなら、この国の銀行は、映画業界自体とやり取りしないと決めている、というケースくらいだろう。しかしそれは現実的ではない。

誰の物語か

この映画のもっとも大きな問題は、この物語はいったい誰の物語なのかということだろう。
これを考えたときこの物語は、一本の映画ができるまでを順に描写したにすぎない映画というしかない。
つまり、劇中の人物が誰も成長していないのである。ただし、アラン(銀行員)を除いて。
ポンポさんはもちろん、俳優陣に内面的成長はない。劇中のどこにポンポさんが人間的に成長した場面が描かれていただろうか。俳優陣も同じである。劇中のどこに、内面の葛藤から生まれるキャラクター自身の成長が描かれていただろうか?
肝心のジーンは後半に、捨てることで集中する、という重要性を学ぶ。人生における余計なことを捨てるという重要性は、映画でもまた同じだということである。しかし、彼は最初のシーンから、目に不自然なくらいのクマを作るほど、映画に入れ込んでいたのではないだろうか。だからこそノートをすべて暗記していたのではないか。そうすると彼はこの映画が始まる前から、他のものを捨てていたのでは?
実際に劇中でも、学生時代に友人たちに囲まれ、華やかだったアランとの対比で、友達もおらず寂しい学生生活を過ごしていた様子が描かれていたのではないか。
そう考えるとジーンを筆頭に、アラン以外の誰も内面的に成長していないことになる。
そうすると、これはアランの物語か、という話になる。しかし、そうではないことは誰の目にも明らかだろう。

これらの理由からポンポさんの脚本は不自然であったと思う。

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