打込み訴え

聴いて下さい。聴いて下さい。誰でもいい。そこの貴方。ええ、貴方、そこで茫然と此方を見ている貴方です。聴いて下さい。私の言い分を聴いて下されば、そして適当に相槌でも打って下されば、それだけで良いですから。
はい、はい、有難うございます。では落ち着いて話します。まず、私は今すぐにでも、死ななくてはならない様な人間なのです。こんな事を言ってはいけない。命が大切なものであることは重々分かっております。ええ。でも私だけは違います。世の中のごみです。間違いありません。煙のように、跡形もなく消えて無くなるべき人間なのです。生きていて良いことなど一つも有り得ません。それは分かっています。いつも外を歩いている時、道行く誰かがふっと私を殺してくれないかしらと、願っているそのような日々です。はい。とは言え、実際見込みのありそうな人間を見つけて、殺してくれと頼むわけにもいきません。私如きのために、人一人の人生を駄目にするなんて、そんなことは決してあってはゆけませんから。それに、事故で死ぬにしたって、誰かしらは罪悪感に苛まれる日々を送ることになると思うのです。そうでしょう。その上、一人静かに自害をするような度胸も気概きがいもなく、他力本願で、なので私は今もこうして愚図愚図と生きているのです。歳ですか。二十です。ええ、若いと仰られるかもしれませんが、人間の歳など全く当てにならないということは、二十年の人生でとうに理解しております。十にも満たない子供が礼儀をわきまえ真理を口にし、三十過ぎの青年は働いたこともなく世間に絶望し、八十近くになる老人は金と欲にしがみつく、そんな世の中です。
いや、失礼、前置きが長くなりました。兎にも角にも私が言いたいことは、一番言いたいことはですね、誰であっても、例えばそこの道端で野宿をしている無一文だろうが、遠い南の国の別荘に一人住んでいる富豪だろうが、罪人だろうが聖人だろうが、大切に思う人の一人や二人は居るだろうということなんです。それはとても想像し難いことかもしれませんが、きっと確かなことなんです。貴方にも居るでしょう。そして、私にとってはあの人が、あの人だけが、その大切な人なんです。私は死ななければいけない人間です。はい。それは分かっています。充分に。けれども、私が死ぬることが出来ない理由には、偏にあの人の存在もあるのです。ああ。私が死んだら、きっとあの人は悲しむでしょう。いや、あの人しか悲しまないかもしれません。あの人は優しい人ですから。心の綺麗な人です。赤の他人が死んでも、心から哀しみの涙を流すことの出来る人間です。その様な美しい人が、今の世の中にいったいどれほど残って居るのでしょうか。いいえ、決して私は世間に絶望しているわけではないのです。世間が勝手に卑屈になっているのです。
あの人は生きるべき人です。この先も長く、長く、永遠だって良い。司法、思想、あるいは自然の摂理によって、世界はあの人を淘汰しようとしていますが、それらの理を持ってしてもあの人は失われるべき人ではないのです。神が天からあの人を私たちに賜って下さいましたが、神ですらあの人を私から奪う権利はない様に思うのです。馬鹿な話です。傲慢だと分かっています。ですが、もし仮にいつかあの人が神の御許みもとへいってしまったとして、あの人が居ない世界で私はどのように生きていくべきなのでしょうか?いえ、私は死ぬべき人間です。けれど生きています。あの人の所為なのです。
私はあと少し生きている間に、あの人の為に何でもしたいと願っていますが、あの人は一人で何でも出来る方です。苦労を苦労とも思わず、人を助け、人に愛され、感謝され、ですが驕ることがありません。私のような欲と恥に塗れたどうしようもない人間でさえも、まるで高名な賢人の様に扱って下さるのです。貧困の中でもたった一つしかないパンを私に与えて、自分はただ水を飲まれるのです。地位も名誉も金にも興味のないあの人に、私がいったい何が出来るのでしょうか。ええ。出来ることなどありません。私にとってあの人は全てですが、あの人にとって私は全てじゃない。たとえそうだとしても、それを悲しいことだとは決して思いません。あの人は美しい人です。あの人の心の内を私に理解出来る筈もありませんが、どれだけ汚いものや恐ろしいものを見ても、その清らかな心が穢れることはないでしょう。それ故、私は心苦しいのです。あの人は一人穢れることがないために、永遠に孤独なのです。私のほんの僅かな幸福をあの人に捧げたとしても、あの人の宇宙の様な孤独を埋めるには、きっとあまりに足らないのです。いつか私が見知らぬ土地で一人寂しさに耐えかねて、あの人に電話を掛けた時、あの人は直ぐに出て、私の話を静かに聴いた後、私が会いたいですと言ったら、笑って「そう言ってくれてありがとう」と言って下さいました。そして次の日に三十里も離れた街の宿まで会いに来て、一緒に日の出を見ようと私を外へ連れ出して下さったのです。二月の空気はひんやりと澄んでいて、新鮮だったことをよく覚えています。夜空の白む坂道を並んで歩きながら、あの人はぽつぽつと私にこう仰いました。「あなたは頭の良い人ですから、却って苦労することも多いでしょう。あなたが私に向けてくれる様な純粋な心を、世の中にも向けなくてはいけませんよ。あなたはよく死ぬか生きるかの話をしますが、私は死ぬ時きっとあなたに何も残してあげられないでしょう。けれど、天の父が必ずあなたを見ていて、守り導いて下さいます。だから私が居なくなったと言って、心細く不安に思う必要はないのです。私は何処へ居ても変わらずずっとあなたの為に祈るでしょう」私はそれを聞いてひどく悲しくなって、涙が溢れて、あの人は私を元気づけようとして下さったのでしょうが、私は自分が情けなく、惨めで、無力で、あの人の信用に応えられないであろう事実に、どうしようもなく苦しく感じてしまったのです。私はあの人の為にどんな事もしようと思うし、地獄に落ちたって構わないと思うけれど、あの人のたった一つの願い事すら叶えてあげられない。きっと私の罪は許されないでしょう。
私はこの様な身分ですが、私が烏滸おこがましくも心配なことは、あの人の隣にいて、あの人を愛していると言う方が、本気であの人をちゃんと深く愛して下さるのかということなのです。あの人の孤独に寄り添い、あの人の為に花を買って、あの人を些細なことで笑わせられるのか。いえ、あの人は一人でも十分幸福に生きられる方ですが、私は自分のことを棚に上げて、あの人の善良な心を利用する輩が気に食わないのです。おかしな話です。私こそ、偽善じみた卑しい心であの人を都合よく利用しているというのに。正直、私はあの人に対して、他の人間とは違うと、心の何処かでそう思ってしまっている節があります。愚かなことです。
密かに私が考えていることは、あの人がいつかその命を全うされた時のことです。悲しいですが、そういう想像をよくします。私はあの人の葬式に、新品の黒い服を着て、白い薔薇を一輪手向けて、周りの人間たちの涙と、感傷的な哀しみの雰囲気を味わった後、その胸の痛みが消えぬうちに、私は何処か遠い海辺へ出かけていって、そのまま夜の暗がりに消えていくでしょう。具体的に何をするという話ではありません。何となく抽象的に、その様に考えているのです。


『駆込み訴え』のような文を書きたくて書いていましたが途中で飽きたので供養。


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