身体に引っ付く泡をどうする
日々、色々思うことはある。ご飯が美味しい、天気が良い、面白い出来事があった、悲しい気持ちになった、腹が立った、眠たかった、読んだ本が面白かった、かわいいアパートを見つけた、今日は早く寝たい、など。
何かに触発されて生まれては消えていく、私の他愛の無い感情。他人からすればそれはどうでも良くて、私の生活にさえそれほど大きな影響を及ぼさないような感情。
それはお風呂に入って湯船に浸かった時に身体にまとわり付く小さくて細かい泡みたいな存在に近い。量もサイズも、自身の身体に引っ付いてから離れて消えていくまでの様子も、全てが似ている。その泡を見て手で払ってみたり、そのままジッと見つめて観察してみたり、束の間その泡と戯れてみたり。でも最終的にはどうでも良くなる。そして消えていく。一粒一粒に名前も付けたりしないし、その泡が永遠に泡であり続けるように保存したりもしない。(泡の保存方法とは)
同じように、自分の頭の中で生まれる感情や、身の回りで起きる現象は、毎日毎日、たくさん消えていく。大抵は口にしない、文字にしない。でもそれらが私の生活を形成し、私の日々を色濃くして、それが積み重なって一年、また一年と永遠に続いていく。
なんて儚いんだろう。なんて刹那的な時間なんだろう。と少し切なくなる。本当に寂しくなる。お腹を抱えて笑った内容も一年後には忘れているし、涙を流して悔しがった感情も一年後には再現できない。それらを惜しいと思う。やっぱり思ってしまう。
小学生でも分かるような単純な計算方法なのに勘違いして、頭がこんがらがって、良い大人が筆算をして爆笑していた時間とか。
職場で隣に座っていた、いつも優しくてふわふわしている人が誰かを思い出そうとした時に口から出た「イエスキリストみたいな人」という例え。一体どんな人生を歩めばイエスキリストに例えられるような人格者になれるのか。思わず後から「イエスキリストみたいな、ってどんな人だったんですか?」と尋ねてしまった残業時間とか。
そういった本当に些細な、他人からすれば面白くもないような時間がたくさんある。この面白さを理解できるのはその場に居合わせた人たちだけかもしれない。そう思うと、その場に居合わせなかった今これを読んでいるあなたにもこの面白さが伝わるような文章を書く技量を持ち合わせていない自分が悔やまれる。本当にその時はヒーヒー言って笑ってたのに今は真顔でこれを書いているので、伝わるわけがない。
そもそも、これらの俗に言う身内ネタは、身内外にシェアするものではないのかもしれない。その場で笑って、その場で泣いて、その場で居心地悪くなって、その場で居心地良くなって、それだけで良いではないか。それ以上でも以下でもない。その日の出来事を、その日居合わせた人の中で共有して、各々に消化して、それで良いではないか。とも思う。
だけど、やっぱり誰かに伝えたくなる気持ちもある。面白かったことを誰かに話したくなる気持ち。その気持ちの根源には一体何があるのだろうかと考えてみると、ますますよく分からなくなる。話を聞いてくれる相手を笑顔にしたいのか。面白かったことを誰かに伝えることで自分の承認欲求を満たしたいのか。会話ってなんのためにあるんだろうか。と段々壮大な規模の疑問が浮かび上がってきて、試合終了です。
数十年前のインターネットの無い生活をしていた時代に思いを馳せたりもしてみる。あの時代を生きていた人たちは上記の感情をどのように消化したのか。同じ感情を持ち合わせていたのか。承認欲求なんて持たなかったのか。電話?手紙?もう色々訳がわからなくなってくる。ユーミンの曲を聴きながらこのように思いを馳せる時間は個人的に至福で最高ですが、途中から途方に暮れてきたりもする。昔の時代に行ってみたいものです。あの時代を生きた同世代の人たちと今話してみたい。「バカバカしいね」なんて言われてしまうのかな。
これはきっと現代の病気だと思う。
日々それらの誰かに聞いてもらいたいと思ってしまう気持ちと「どうでもいいこと」と思ってしまう気持ちと葛藤している。聞いてもらいたい人はこの人、と決まっているわけではない。何人かの友達や知人に話したいと思う。でも全員が同じ時間に私の話を聞くために集合してくれるなんていう都合の良い世界は存在しない。だからネット上にこうして書くのかもしれない。現実世界でもネット上でも適当なタイミングで私の話を聞いてくれる(読んでくれる)人を探しているのかもしれない。
皆それぞれが互いに色んな時間を過ごして、互いに誰かと色んな時間を共有して。インターネットに甘えている。本来もう縁が切れていても仕方がない人と繋がり続けている。本来もっと会いたいと思う人となかなか会えないまま生きてしまっている。全てインターネットの存在によって対人関係を甘んじてしまっている結果、このような日々の生活承認欲求ガールが生まれているのか。色んな方向に好きな人がたくさんいて、みんなに話を聞いてほしい。色んな距離感で好きな人がたくさんいる。どれも居心地がよくて一番なんて選べない。だから今日も虚無に向かって文字を打っている。
やはりこれは、贅沢で空虚で貪欲な現代の病気だ、ううう。
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