南無阿弥陀仏
最近読み終わった本と、これから読み始める本の間にいる私を記録しようと思う。
最近読み終わった本は、『諸行無常を生きる』ひろさちや著。
これから読み始める本は、『人生のほんとう』池田晶子著。
何を隠そう、私はこういった類のお話が大好きだ。
生まれてくることの謎。私が生まれた1996年までに1996年分の時間が経過していることの謎。もっというと紀元前分の時間が経過していることの謎。そして丸い地球の上で、無数の命が自己をもって生活しているという謎。地球以外の場所で存在しているかもしれない命についての謎。身体の謎。脳の謎。感情の謎。死んでいくことの謎。
『諸行無常を生きる』から私が受け入れた考え方として、「人生とは明らめること」であるという考え方がある。
ここでいう「明らめる」は「諦める」とは異なる。一般的に「あきらめる」という言葉を動詞として用いたとき、私たちは後者「諦める」の意味で使用する。他方前者は「明らかにする」という言葉で区別する方が一般的であると考える。
「明らめる」とは物事の事実や理由をはっきりと理解すること。「諦める」とは物事に対して思い切る、断念すること。
例えば、なにかに罹患したとき。「明らめる」のであれば、自分が罹患した状態を受け入れ、罹患した状態の生活を日常として捉え、一日一日をいつも通りに過ごすことを意味する。他方「諦める」のであれば、自分が罹患した状態に絶望し、罹患前の生活を惜しみ、一日一日を罹患した自身の身体に不毛な問いを抱きながら過ごすことを意味する。
かみ砕いて例を挙げてみたが、もっとシンプルな例を挙げることもできる。
死者に対して、死という状態にある相手をそのまま死者として愛し、想うことが「明らめる」ということ。死者に対して、残念だ、生き返ってほしいと考えることが「諦める」ということ。
生まれてしまった命は必ず死ぬ。その不可逆的事実を、巻き戻さない。巻き戻せないと理解することが「明らめる」ということ。
その事実を理解して生きることが、「諸行無常を生きる」ということだと私は理解した。いいね。
これから読み始める本『人生のほんとう』は、その不可逆的事実のなかにさらに入っていく本だ。私の大好きな哲学者 池田晶子氏が講義形式で世の謎を語っていく。
不本意で生まれちゃって、さらに不本意で死ぬというシステムを客観視して展開する。私たちはこの世を生かされちゃってる。生きたくて生きてるのではないし、死にたくて死ぬのではない。生死のシステムのなかで生かされているのだ。
そして池田晶子氏お得意の「死は無」「無ということは死は存在しない」という考え方。身体と自己は切り離して考えられる。となると身体の死は自己の死ではない。身体が機能しなくなると、自己が機能しなくなると言えるのか。
そのような科学的ではない、抽象的な物事を考える時間がとっても楽しい。今の生きている状態を、能動的に客観視する。私ってなに?地球ってなに?宇宙ってなに?自己ってなに?
昔の人(主語大きすぎ問題)は、一人静かに考える時間が長かったのだろうと、つくづく思う。確立された哲学や宗教が今日まで息をしている事実を鑑みると、想像を絶するほど長い時間をかけて、生死について、道徳について、倫理について、森羅万象様々なことについて考えたのだと理解できる。
無意識に早朝にスマホからなんとなくのBGMも流さず、トラックの音や汚染された外気を遮るために窓を閉め切ることもなく、もっともっとシンプルな世界で滾々と思いを巡らせては消えていく、世の不思議、思考の不思議を捉えていたのだろう。
退職してフリーランスになってから、圧倒的に自分の時間が増えた。
日々の3割程度しか働いていない。7割がフリータイム。しかし案外出かけることは少なく、映画館で映画を観るときや友人と外食するとき以外は、一人で家にこもっている。とっても不健康である。
時間を自由に使うということに対して無駄に罪悪感を覚えてしまう。机に向かって座っていないといけないという強迫概念が勝手に芽生える。恐ろしいことだ。
唯一、胸を張って言えることといえば、あれこれ一人で考える時間がさらに増えたことである。考えると同時に知らないことの多さに気づく。そして図書館に駆け込み、読めもしないような冊数の本を抱えて帰る。
考えるための時間を確保できる。時間があるから考えている。鶏卵の話になりそうだが、考える時間が増えたという事実だけに集中すれば私は今、昔の人の日常の過ごし方に近いのだ。永遠にこの生活が続けばいいのにと思う。
ところで、私には図書館というスタイルがあっていないという事実が明らかになった。図書館の返却期限に追われて行う読書は精神的に不健康である。読みたい気分ではない日に強制される読書なぞ、健康的なわけがない。古本屋無双者になる方がいいのかと諦めかけている。
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