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知る早さ、悔やむ深さ

大人になってから悔やむ回数が本当に増えた。どんな物事にも言えることですが、知らない世界に足を踏み込んだ時、まだその世界の広さや深さについては知らないことが多い。手に取るもの、目にするもの、体の中に入れて体験するものすべてが新しく、刺激的で、感情の一番手前にある「なにか達」がバチバチと共鳴し合い、感動し合う。感情の一番手前。犬を見て「かわいい」、音楽を聴いて「心地良い」、絵を見て「癒される」、本を読んで「楽しい」。そういうほとんどの人が共通して持ちやすい感情を一番手前とする。

悔やむ機会は、その感情の一番手前から一番奥に向かって進む途中に必ずと言っていいほど生まれる。例えば私の場合、本に対して抱く感情の中でウン百回は悔やんでいる。「どうしてもっと小さい頃から本に親しんでこなかったのだろう」と、新しい本を読むたびに思う。本について、そして地続きで感情についても知らないことが多すぎる。小説の中で出会う主人公は、主人公の人生の中での感情の動きについて主観的乃至は客観的(著者が様々な描写や登場人物の会話などで読者に説明する形式を指す)に痛みを感じながら人生をやってるじゃないですか。(人生をやっている。)最近読んだ本であればヘッセの郷愁という作品の中で描かれる主人公の失恋に対して揺さぶられる感情への理解の仕方が秀悦で、目から鱗を通り越して、目から魚、目から水族館でした。失恋に伴う痛み。私が言葉で描写するなら「グググ」の三文字で終わってしまうところをヘッセは美しく、丁寧に、繊細に、且つ彼の特徴でもある自然の力を借りて土着的に描写するんです。体験としての記録でもありながら美しい文学としても楽しめる。そんなことが現実にあっていいのかって話ですよ。いいんですよ。

昔から本に慣れ親しんでいれば、気付けば十年近く前になろうとしているあの青春時代に抱いた、感情の特有の動きに対して優しく丁寧に対応できていたのではないかと悔やんでも悔やみきれないほど悔やんで止まないのです。ルールに沿って、年間行事に沿って過ごす学生生活の中でも生徒一人ひとりが抱く感情は十人十色。私もあらゆる感情を抱いてきましたが、そこに本があればどれだけ良かっただろうとやはり悔やんでしまいます。

学生時代、とんでもない岐路に立たされた体験が一度あり、その時に抱いた感情に対して成す術を知らなかった私は無我夢中で必死に自分の心を傷つかないように守っていました。傍から見るととんでもなく見苦しい方法で。あの時、絶望や怒り、悲しみや悔しさ、独占欲や愛おしさ、羞恥心と情けなさなど複雑に入り混じった感情に対して寄り添ってくれる本があればどれだけ落ち着いて行動出来ていたのかと考えてしまいます。本と私、文字と私、主人公と私、感情と私。一対一の関係で時間が許す限り無限に自分と向き合い続けられる時間という名の逃げ場を昔の私に教えてあげたかった。

自分を理解する、なんてことは永遠に不可能な難題ですが、私の場合は本があれば「自分に寄り添う」ことはできるかもしれない。自分に寄り添う時間を十年近く前から重ねていれば、もう少し冷静な女になれていたのだろうか。もう少しミステリアスな女になれていたのだろうか。秋の夜は長いです。

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