『閻魔堂』
このノートを『閻魔堂』と名付けた理由は、西国巡礼をしていくうちに、閻魔大王の慈悲深さを感得したからです。
そして、閻魔大王の目の前でも恥ずかしくない人生を歩もうという決意したことに起因します。
目に見えないものを書くときは、人を惑わすものであってはいけません。
ですので、目に見えないものを書くのであれば、閻魔大王の前で書く覚悟を持たなければならず、このNoteを『閻魔堂』と名付けました。
閻魔堂
閻魔堂は、一般に、閻魔大王の像が安置されているお堂をいいます。
この記事にあげた閻魔堂は、四国霊場第86番志度寺のものです。
志度寺の閻魔大王です。
なおホームページはこちら。
四国八十八所の巡礼にて、残り三寺院で結願という終盤に、突然、閻魔大王が出迎えるのが、四国巡礼のハイライトでもあり、醍醐味だと思います。
なお、志度寺には、四国で唯一(!?)「閻魔大王」の御朱印があります(今後、西国巡礼および四国巡礼について備忘録を書く予定です)。
西国巡礼の始まり
私は、鬱病になり、一人でいるのが怖くなり、かといって人混みに紛れるのも嫌だったので、初詣のついで(2021年1月4日)に、突如、四国巡礼を始めてしまいました。
ただひたすら心の安定を求めていたら、四国巡礼を始めていたという感じでした(後日、四国巡礼記を書く予定です)。
しかし、明石大橋や鳴門大橋を越えるには、交通費も掛かることから、四国巡礼は月に一回に決めました。
残りの休日は一人でいるのが怖かったので、交通費が掛からない西国巡礼にすることにしました(後日、西国巡礼記を書く予定です)。
西国三十三所巡礼は、近畿地方2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場を札所とした日本最古の巡礼行です。
その歴史は、養老2年(718)に遡ります。大和長谷寺の開山徳道上人が、病にかかって仮死状態になった際に、冥土で閻魔大王と出会います。
閻魔大王は、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けました。
現世に戻った徳道上人は、閻魔大王より選ばれた三十三の観音霊場の礎を築かれました(ですから当初、長谷寺が札所1番だったそうです)。
これが、西国巡礼の始まりですが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納められました。なぜ、三十三かというと、観音菩薩は三十三の姿に変身し、人々を救うからと言われております。
ということは、日本最古の巡礼は、閻魔大王の慈悲により始まったと言えるのではないでしょうか。
それから約270年後、途絶えていた観音巡礼が、花山法皇によって再興されます。19歳の若さで法皇となった花山法皇は、比叡山等で修行をした後、観音霊場を巡拝され、西国三十三所観音巡礼を再興されました。
私は、西国三十三所を巡礼していくなかで、観音様の慈悲深さを感得し、時には号泣してしまうこともありました。
お参りして境内を歩いていると、他の観光客が驚くくらいに涙が溢れ、人目をはばからず号泣してしまったのです(修学旅行に来ていた高校生らがドン引きしておりました…)。どんなに辛いときも(若かりしときは無神論者でした)、観音様は、私を見捨てず、救いの手を差し伸べていたという映像が走馬灯のように浮かんできたのです。もちろん、当時の私は、そんなことを知るよしもありませんでした。己の無知に恥ずかしくなり、同時に、観音様の慈悲深さを感得することにより、自然と涙があふれ出し、号泣して心が洗われることで、頭の中に住み着いていた悪魔(悪霊)が、徐々に浄化されていったのです。
そこで、ふと気づいたのです。
このような素晴らしい観音参りという、己に住み着いた悪霊を浄化するシステムとして機能する巡礼が、閻魔大王の慈悲により始まったという事実と向き合うと、閻魔大王も、常に人々の救済、御魂の修行を望んでおられると。
そして、観音様と閻魔様が表裏一体の存在であると気づいたのです。
すなわち、『この世』である三次元の顕界にて、観音様は人々を導き、『あの世』では、死後の世界における幽界にて観音様が閻魔様として御姿を変えて現われ、幽体を導くのではないか、と直観しました。そして、閻魔様は、死後において御魂の修行のために、幽体を霊界に導くのです。
『この世』と『あの世』が同時に存在するならば、今を生きるためには、『あの世』の視点も必要なのではないか?
閻魔様が怖い形相で伝えたいことは、まさにこのことであると思っております。
そこで、『この世』と『あの世』を貫く法理を書くために、このNoteを閻魔堂とさせていただいた次第です。
閻魔堂
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