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商業漫画という、世相を呑む流動体へ挑むにあたって

地に足付かぬ虚弱な精神状態のまま、東京へ持ち込みに行った。意志を働かせるまでもなく身体が勝手に動いてくれた。
技芸の能力は世へ還元されるべくたまたま配分されただけであって、借り物であり所有物ではない。私自身でない何者かに動かされているとつくづく思う。

なんとも有難いことに、週刊少年サンデーとモーニングで担当がついた。アフタヌーンは次の持ち込みで担当がつく見込み。
男の友情物語・各衛星で人工進化を遂げた人類と新たな宗教観についての物語・肉親の死と遺骨ダイヤの物語――動的青春・SF・静的リアリズム。雑誌の傾向に沿ってこれらを同時並行で描いている。
求められるジャンルの隔たり、その甚だしさにふと笑ってしまう。

商業誌を目指すにあたり、いよいよ自分が描きたいものを完成させれば万事良しという状態ではなくなってきている。本音では幻想系とSFだけを描いていたいが、それでは職業として成り立たない。
だからこそ「自分なくしの修行」には大いに意義がある。

背広を身につけ、抑圧から生じる反骨精神を原動力とした岡本太郎。
(我が強いようで、実は究極的に「自分なくし」を体現したまったく稀有な芸術家ではないかと私はにらんでいる。あの赤は鮮血の赤。生命が共有する生と死の色。彫刻を間近で見てほしい。大地から自然発生したかのように思われないか。)
「集団と個人の間」を山高帽に見出したマグリット。
既製品のダークスーツに包まれた往年のジャズマンたち。
創造のベクトルは異なれども、私にとっての歴代のアイコンはみなその仕事上において、あえて大衆的な衣装を身に纏っていた。

自我と錯覚される不透明な存在の気まぐれによって、極彩色の"ファッション"で表面を短絡的に取り繕うのではいけない。 
群衆に擬態すること。
但し迎合とはノットイコールである。

諸芸術を含め、商業誌の極意もそこにあると見ている。

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