柄杓(ひしゃく)のなかに浮かぶ蟻
真夏日に行脚していた二人の修行僧は、喉が渇ききってもうどうしようもありません。すぐにでも喉を潤したい一心で、道中を急ぎます。
二人はようやく飲み水にありつくことができました。一人目の修行僧がそこにあった柄杓(ひしゃく)で水を飲もうとすると、柄杓のなかに蟻が浮かんでいるのを見つけました。修行僧は、喉が渇いているのに蟻のせいで水をすぐに飲めないことに、とてもイラつきました。
「あー、うっとおしい蟻め。水が飲めないではないか」
修行僧は、蟻を摘まんで押しつぶし、水を一気に飲み干しました。
次にもう一人の修行僧も、柄杓で水を飲もうとしました。そうすると、また柄杓の中に蟻が浮かんでいます。
そこでこの修行僧は考えます。
「蟻を気にせずそのまま水を飲むべきか、蟻を摘まみ出してから水を飲むか…。いや、こんな日は、この蟻もさぞかし暑いに違いない。蟻も生きるために必死に水を求めているのだ」
こちらの修行僧は蟻を憐れみ、蟻を避けて水を飲みました。そして浮かんでいる蟻のために、水を全部飲み干さず、柄杓に少し水を残してあげました。
一人目の修行僧は水への執着心が強く、「喉が渇いた。水が飲みたい」と自分の欲望を第一に考えます。また、蟻を押しつぶすことは道徳的とは言えません。
一方、二人目の修行僧は、蟻の存在が水にも柄杓にも自分にも害を及ぼさない方法を考え、蟻が可哀そうと思って蟻の命を重んじる道徳的な行動をとりました。
さて、皆さんはどちらの修行僧を支持しますか。二人目の修行僧のほうが正しいことをしたと、多くの方が思うのではないでしょうか。
もちろん、二人目の修行僧のほうが、蟻への心配りを忘れず道徳的な行動をしたことを考えれば、一人目の僧よりも立派です。
しかし実は、仏教では二人とも正しいとは言えないのです。なぜなら仏教における善行とは、道徳的か道徳的ではないか、といった「分別」(分けて判断する)行為ではないからです。
仏教は、どちらが良いかといった二者択一から離れた「無執着」を重んじます。無執着になるためには、蟻と自分が一体になる必要があります。二人目の修行僧は、まだ「自分」と「蟻」が分かれており、「可哀想」という自分が有利の立場から哀れんでいる気持ちからの行為です。
例えば、川でおぼれている子どもを見つけた時の親を思い浮かべてください。親は、川の深さがどれくらいとか、流れが急だとか、助けるべきか助けないべきかなど色々と考え悩まずに、瞬間的に川に飛び込んで子どもを助けるはずです。親が子どもを助ける前に、自分の行動が道徳的かどうかなど考えたりしません。
仏心とは、まさにこうした親から子への無条件の愛情と同じで、そこには道徳的か否かといった分別は存在しません。
無執着とは、「良い」(道徳的)・「悪い」(非道徳的)といったふうに、ああだこうだ考えず、自然と迸(ほとばし)る行為です。
分別前の瞬間に顕れる行動や言動こそが、その人の真実を物語っているのですね。
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