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青の洞門

昔、大分県耶馬渓に交通の難所として知られていた場所がありました。ここは日々の生活のためにはどうしても通らなければならない道でしたが、目が眩むほどの岩壁に沿って鎖につたって渡る危険な道でした。足を踏みはずして命を落とした人や馬は、数知れません。

そこを修行途中で通りかかった禅海禅師は、鎖渡しの桟道で足を踏みはずして墜死した惨事に出くわしました。実は、禅海はかつて江戸で武士に仕える身でしたが、ある時、些細なことが原因で主人を殺めてしまい、その罪ほろぼしのために僧侶となって諸国行脚の仏道修行に出ていたのでした。

ちょうどそこに出くわした禅海に、人々は頼みました。
「お坊様、いいところにいらっしゃいました。ここは地元でも有名な難所で、たった今も旅人が崖から滑り落ちて命を落としたところです。どうか、お経を唱えてもらえませんでしょうか」

禅海は丁寧にお経を唱え、命を落とした旅人を弔いました。その夜、岐阜にいる師匠が禅海の夢に出てきて言いました。
「禅海よ、断崖絶壁に沿った山道では今後も命を落とす人々が絶えないであろう。お前はどのようにしてこの人々を救うのか」

翌日、禅海はその崖道に行き、危険な場所であることを再認識した後、大きくうなずいてこう思いました。
「わしはやっと生涯にわたって仏道を全うすることがどういうことかわかった。これだ、このために私はここに来たのだ」

禅海は、この岩山に洞門を掘る一大誓願を起こしました。
しかし村の人々は、岩に穴を掘ろうとする禅海をあざ笑うばかりで、一向に助けようとはしませんでした。
「あの時、お経を唱えてくれた坊さんか。その時は徳の高い坊さんと思ったが、頭がおかしいのか、岩山をくりぬくなど正気とは思えん」

禅海がノミで穴を掘り始めて1週間経っても、穴どころか、小さなくぼみしか現れない現状を見れば、岩山をくりぬいて道を作るなど夢のまた夢、誰も想像できませんでした。村の人々は、次第に禅海を気ちがい坊主と呼ぶようになりました。一年経っても全く作業は捗りませんでした。

禅海

それでも禅海は、人の罵りに耳を傾けず、昼夜問わず岩盤を掘り続けました。禅海を変人扱いしていた村人たちのなかには、昼夜問わず黙々と洞門を掘り続ける禅海の労苦をねぎらう者も現れ始めました。

数年経つと、禅海の目は窪み、背中は丸くなり、ひざも弱り、禅海の身体は一気に弱くなりました。それでも禅海はひたすら一本ののみで岩を砕き続けました。こうした禅海のひたむきな態度と強い決意が、村の人々の心を少しずつ変えていきました。岩の入り口には、食べ物や新しい着物が自然と置かれるようになりました。また禅海の仕事を助けに来る人たちも現れるようになりました。もはや禅海を気ちがい坊主と呼ぶ者は誰一人いませんでした。

それでもすぐに成果がでるといったことはありませんでした。いつしか二十年が経ちました。禅海の髪や髭は真っ白になり、身体は太陽に全く当たらないために細白に、暗闇の穴で作業していることが原因で目すら満足に見えなくなっていました。生涯に渡って岩を砕き洞門を築いている禅海に、人々は進言します。
「もうゆっくりと休んでください。後は我々がしっかりとやりますから」

そう言っても禅海は、作業を止めずにひたすら岩を掘り進めます。
「わしはもう目もろくに見えなければ、満足に足腰も立たないが、何年も掘り進めた感でわかるんじゃ。もうすぐ開通するぞ」
                   *
ある時、一人の若い侍が禅海を捜してやってきました。この若者は、かつて禅海が出家する前に殺めた侍の子どもでした。父の仇を討つために、この地へやって来たのです。禅海は侍に静かに手を合わせて言いました。
「わしは確かにお前さんの父親を殺した男じゃ。しかし私を殺すのは、もう少しだけ待ってもらえないだろうか」
「今さら命乞いか。坊主のくせに」
「いや、そうではない。多くの人が命を落とすこの難所を解決しようと、早三十年近く経ってしまったが、あと少しで貫通するのじゃ。それまでどうか、待ってもらえないだろうか」

侍は、目の前にいる薄汚くやせ細った老僧禅海と削った岩肌をじっと見つめました。この洞門が、今では村の人々やここを通る旅人たちの願望であること、そして人々を救いたい一心で人生をかけてきた禅海の真意は、禅海の姿を見れば一目瞭然でした。
「この岩穴を一人で長い間ずっと掘り続けていたのですか。わかりました。ではわたしも今日からあなたを手伝いましょう。しかし勘違いしないでください。あなたを手伝うのは、一日も早く洞門を貫通させて、父の仇をうつためです。あなたを助けるためではありません」

仇を討つ者と討たれる者、お互い目的は違いながらもただ黙々と洞門を掘る二人の姿が、そこにはありました。それから数年ほど経過したある夜の日、いつものようにふたりは口もきかず、ただ黙々と作業を進めていた時です。禅海が、突然出ない声を絞り出して、興奮して叫びました。
「やった、とうとう…」

青の洞門

岩の向こう側からうっすらと光が差し込んでいました。禅海から少し離れていたところを掘っていた侍も、慌てて駆け寄ってきました。そうすると禅海は興奮して高ぶっていた気持ちを抑えて、改まって正座しました。
「さあ、長い間待たせたな。すまなかった。洞門はついに貫通した。明朝になれば、また手伝う人たちがたくさんここに来て、お前のかたき討ちを邪魔するであろう。その前に早くわしを殺すのじゃ。わしの目的は達成された。次はお前さんの番じゃ」

禅海は覚悟を決めて深々と頭を下げました。すると、侍は禅海の傷だらけの小さな手をとって言いました。
「もはやあなたは親の仇ではございません。ここを通る全員の命を救ったとても尊いお方です。あなたは三十年かけて私の父を切った時の荒くれ者とは別人になってしまった。別人を切る理由は私にはありません」
                  *
今この場所は「青の洞門」とよばれ、多くの観光客が禅海の功徳を拝みに訪れる大分県の名所となっています。壁面には、禅海の槌の跡もところどころに残っており、その苦労のほどを慕うことができます。

菊池寛の小説にもなっています。👇



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