中野弥生町 plan-B で考えていた日 演劇/微熱少年 vol.2 『料理昇降機/the dumb waiter』について その3
『ダム・ウェイター』に関わるのは初めてではない。
たしか1997年の暮れかそのあたりだと記憶しているのだが、なんせ自分の記憶が定かでないしWikipediaにも書いてない(笑)資料を漁れば出て来ると思うんだけど、まぁ現時点では1997年の晩秋から初冬あたりとしておく。
「イッキさん」という友人が演出・出演した『ダム・ウェイター』に音楽音響で参加したことがある。彼は私が演劇に関わり始めた作品で舞台監督を務め、宮大工の修行をしていたという異色の経歴を持ち、ゼン・ヒラノ氏に師事した、いわゆるメソッド演技の俳優さんであった。
彼とは既に彼の脚色・演出する舞台でも音楽音響を担当したことがあった。何度も映画やテレビドラマになり、舞台版も有名なSF小説が原作の舞台だった。
多分、その舞台の打ち上げの時か、そのちょっと後に「次は『ダム・ウェイター』をやるので音楽をお願いしたい」と頼まれたんだと思う。
少し前に、サードステージ版の『ゴドーを待ちながら』を観ていた。第三舞台の『朝日のような夕日をつれて』の影響とか、「ゴドー」はある種「頭を打ち付け続ける高い壁」のような作品でもあり、自分でも『さらばブタ目都市』という作・演出作品の中のスケッチ「秘密指令X」で「ゴドー」「ダム・ウェイター」をモチーフにしたりしていた。
plan-Bは丸ノ内線の中野富士見町駅から少し坂を上ったところにあるマンションの地下にあった(ある)小劇場だ。コンクリートブロックを積んだ壁面が剥き出しになっていて間口は三間強四間はないくらい。階段や楽屋にはセシル・テイラーやデレク・ベイリー、高橋悠治に土方巽なんてすごい人たちのチラシが張られていて、ああ、ここは東京のアンダーグラウンドなんだなぁって場所だった。アーティストが自主管理しているスペースだっていうのも、なんだろう「自由」っていうか「アンダーグラウンドのカルチェラタン」というか「解放区」のイメージがあった場所だ。
イッキさんの演技・演出はスタニスラフスキーシステム、就中リー・ストラスバーグによるメソッド演技の方法を更に純化しようと試みるゼン・ヒラノ氏の心理学的アプローチやスピリチュアルな指向を再現しようという試みで、毎回演技表出が変化するので音楽や音響で意味を補完したり何かキッカケを作るのがとても難しかった。時には演技の長さも大きく変わるので「ここからここまで」という音源準備は極めてリスキーだった。(「音楽で演技の長さを縛られたくない」と本人からもリクエストされていたくらいだ)そこで、私がとった方法がワークステーションシンセサイザーと当時最新技術だったMDとサンプラーを併用していくつかの短いモチーフをループ素材にしてその場で曲のリミックスを行うことだった。今ではDAWソフトウェアのAbleton Liveなんかを使えば簡単に出来てしまうことなんだけど、その頃、アンビエントミュージック界隈やクラブDJの一部でそんな方法をやっていた人もいるかもしれないけれど、小劇場演劇の音響ブースでやっていたのは自分以外知らない。
その舞台を一緒に創りながら、ぼんやりとだがこんなことを考えていた。翻訳劇の日本語は何故話し言葉ではないのだろうか?異なる言語を正確に日本語に翻訳すると日本語として意味がおかしくなるのは何故なのだろう?翻訳劇のセリフの背後にある文化的な文脈を共有していない人に理解してもらうための方法は「解説」が正しいのか、あるいは理解出来る言葉や劇構造へ置きかえるのが正しいのだろうか?などなど…(例えば「最初の十一人」や「トトナム・ホットスパー」は当時の日本人には馴染みのないものだった)
それは、私が演劇に携わりながらも抱えていた演劇への「違和感」と同義でもあったし、それを強化する機会になったことは間違いない。そして、それに果敢に挑んでいる人たちがいることも知り始めていたからかもしれない。
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