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1人称主語の複雑さ

突然ですが、次の英文を日本語に直してみてください。
When I grow up, I'm going to be a doctor.
おそらく多くの方は「私は成長したとき、医者になるつもりだ」と訳したのではないでしょうか。表現に精通している人なら「大人になったら、私は医者になるつもりだ」と訳すかもしれません。この文章は、インタビューをした動画の翻訳で実際に私が扱ったものなのですが、発言者は幼稚園に通う幼い男の子でした。私の翻訳はこうでした。
「ぼくね、大きくなったらお医者さんになるんだ」

実は、翻訳の世界では1人称主語である “I” の訳出はとても神経を使います。前後の文脈から適切な訳語を使い分けなければなりません。日本語の1人称主語は、「私」だけではありません。「私」「わたし」だけでも、どことなく雰囲気が変わりますよね。日本語を学ぶ外国人にとっては非常に厄介な「自分」という言葉もあります。これは文字通り自分を指す1人称主語ですが、関西圏では相手を指す2人称主語として使用される場合もあります。日本語における1人称主語は非常にたくさんあります。一方で、英語はたったひとつ、”I” だけです。今回はこの謎に迫ってみようと思います。

古事記や日本書紀が編纂された奈良時代までに書かれた書物(上代文学)の中では、1人称主語として「あ(れ)」「わ(れ)」といったものが使用されています。これらに漢字があてられる場合には「我」「吾」等が使用されていたようですが、おそらく当時の中国で1人称として使用されていた漢字のからの借用でしょう。また、古事記では「意礼」、日本書紀では「儞」という2人称が使用されています。これはなんと「おれ」と読むのです。自分を表す「おのれ」が変化して「おれ」になったと言われています。時代が進み、2人称としての「おれ」が蔑称となり、1人称で使用されるようになりました。

このような変化は現代でも見られます。御前(おまえ)や貴様(きさま)は漢字を見ての通り、元は敬語だったはずなのに、長く使われているうちに言葉の中に含まれる敬意の意味合いが薄れていって、現代では相手を見下した言い方になっています。これを敬意逓減の法則といいます。現代において、これらはまだ(蔑称ではあるものの)2人称として使用されていますが、さらに時が進めば1人称で用いられるかもしれません。

海外の人にとって、日本語に存在する敬語や謙譲語という概念は非常に難しいようです。特に謙譲語というのは、自分がへりくだることで相手を立てる言い回しです。つまり、蔑称となっていった2人称を1人称として使用することで、自分を下げて相手を立てる言い回しとなっているのです。

これらの歴史を踏まえると、日本語は話し手である自分よりも聞き手である相手のことを大切にする言語なのかもしれません。少し難しく言えば、英語が主語優勢言語であるのに対して、日本語は主題優勢言語と言えます。英語が自分と相手という2軸で考えているのに対して、日本語はそこに上下関係を取り入れた3軸で捉えて、相手との親密具合や場面に応じて使い分けているのです。さらに面白いことに日本語では、主語を省略する場合も多く、英語と比較するとその扱いの軽さは明白です。

ちなみにIはなぜ大文字なのでしょうか?

12世紀頃、古英語の時代の一人称単数主格代名詞 “ic” の短縮形で、ゲルマン祖語の ”ek” に由来します。この “ek” は、古フリジア語、古ノルド語、ノルウェー語、デンマーク語、古高ドイツ語、ドイツ語、ゴート語でも1人称主語の語源となっています。スカンジナビア,バルト海沿岸地方に居住していたゲルマン民族が4世紀半ばから6世紀にかけて、西ヨーロッパに大移動(ゲルマン民族の大移動)しました。その際に、各地に影響を残してきたのでしょう。

北イングランドでは12世紀半ばに “i” に短縮され、後に全地域で短縮されました。特に母音の前では、”ich” または “ik” の形が北イングランドで1400年頃まで残り、南部の方言では18世紀まで生き残りました。しかし、中世の英語では現在のような点がなくただの棒(I)でした。ただ、これがあまりにも読みにくく、”y” を代用として使用し始めました。11世紀以降には今と同じ “i” が使用され始めますが、やはりほかの文字に埋もれてしまい読みにくいということで、棒の部分を伸ばした “j” の文字が発明されます。それでも当時の印刷技術では読みにくく、13世紀半ばからは大文字の “I” が使用されるようになりました。

■余談のようなボヤキ■

When I grow up, I'm going to be a doctor.
「ぼくね、大きくなったらお医者さんになるんだ」
これだけ自由度の高い訳出をすることができるのは、和訳と翻訳の大きな違いかもしれません。学校や塾の英語の授業で、このように和訳するのは多くの場合、不真面目と見なされてしまいそうです。しかし、それでよいのでしょうか。

当然のことながら、英語と日本語はそれぞれ異なる歴史や文化を持っています。英語と日本語を1対1で完全に対応させることが不可能な場面も多いはずです。それなのに “I” = 「私」と教え込むことが理想的だと言えるでしょうか。この文章の発言者がどのような人物で、この発言がなされたのはどのような場面なのか、そういったことに思いをはせるのも多言語を学ぶ醍醐味だと私は思います。もっといえば、和訳という練習段階を踏むこと自体を認めるとしても、最終的には英文を見て、どのような情景が浮かんだのかを議論するようなことがあっても良いのではないかと思います。少なくとも入試問題の全文訳を作成したり翻訳をしたりするような場面以外で、私はいちいち和訳という作業はしていません。appleと言われたときに、「りんご」という日本語ではなく、赤くて丸い果物のイメージが頭に浮かぶようになるのが本当の理解だと思います。


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