「首相官邸殺人事件」を読む

村松恒雄の「首相官邸殺人事件」は日本のミステリ史の中で忘れ去られた作品である。発表された昭和三十七年という当時としては、おそらく画期的なプロットと実験性を帯びた作品であったのにも関わらず、今に至るまでいわゆるミステリ名作ランキングなどの俎上に載ったことはないはずだ。おそらくこの「首相官邸殺人事件」という不穏な響きのタイトルを聞いたことすらないという人がほとんどであろう。この、いわば「隠された名作」ともいえる本作が、いかに日本ミステリ史からその存在を抹消されてしまったのか。当然ながら批評や評論なども残っていないのだが、種明かしとしては肩透かしの通俗的な事情があったのではないかと推測している。
 
 余談ではあるが私がこの「首相官邸殺人事件」に出会ったのは京都左京区の古本屋であった。店先に出ているワゴンの中に古い雑誌やぼろぼろの植物図鑑、戦記物の小説などと一緒に乱雑に詰め込まれていたのだ。「首相官邸殺人事件」はその中に三冊ほどあり、私はその中から綺麗そうな一冊を手に取ったのだった。ちなみにその後も周辺いくつかの古本屋で「首相官邸殺人事件」を見たので、もしかすると京大生や左京区周辺に下宿している大学生などは読んでいるかもしれない。それ以降書店に立ち寄るとなんとなく「首相官邸殺人事件」を探してしまうのだがいわゆるブックオフなどでは見たことがない。昔からやっていそうな古書店だとそんなに珍しくもなく見つけられるのだが。

 結局私は手に入れた「首相官邸殺人事件」にとりかかることはなく本棚の前で積まれた中の一冊であり続けたのだが、久しぶりにミステリでも読んでみようと手を伸ばしたのがこの本であった。ここから本作の魅力とその先進的な構造を紹介していきたいのだが、ミステリという作品の性質上、その内容を伝えるに辺りネタバレは避けられない。核心的な部分には触れないよう注意を払うつもりではあるが、初読の楽しみを奪われたくないと思われる方はここで中断し本作そのものを手に取っていただきたい。

「首相官邸殺人事件」はジャンルとしては倒叙ミステリに分類されるだろう。主人公は首相補佐官の浦辺で、この浦辺の視点による一人称小説となっている。しかしこの倒叙ものとして読んでも本作の構成は少し風変りである。通常、倒叙ものといえば平穏な日常が描かれそこから殺人に至る経緯や心理の変化などを丁寧に描いていき、中盤で殺人が予定されたクライマックスとなり、そこから犯行の露見までの転落という山なりの構造をもつものだが、本作は殺人が冒頭に設定されている。というよりも殺人のまさにその事後から物語はスタートする。読者はいきなり浦辺が殺人を犯したこと、どうやら浦辺の妻秋子も共犯らしいことなどを知るのだが、浦辺は殺人のショックでその記憶がかなりあいまいになっており自身が殺人を犯したことすら確信が持てないパニック状態になっている。パニックになっている浦辺が状況を思い出し、確認していくことで読者は事件のあらましを少しずつ知ることになる。一方で妻秋子は浦辺の殺人を確信している様子であり、浦辺は事件後、政府関係者や警察が入り混じる首相官邸内で自身を疑いから避けるためパニックを押し隠して立ち振る舞う。察しのいい方ならこの時点で気づかれているかもしれないが、本書の冒頭は「マクベス」へのオマージュである。浦辺夫妻は野心のために首相を亡き者にし、その後は罪悪感に苛まれていく様が描かれていく。しかし主人公の浦辺はマクベスに比べどこか滑稽な所があり、その苦悩や追いつめられ方はどこか喜劇的な様相を伴う。常に「どうする?どうする?」と慌てふためきながらもその動揺を押し隠して冷静な人物たらんとする浦辺は読者の笑いを誘う。首相補佐官として落ち着きのある官僚的な姿勢を骨の髄までしみこませた男、大人物は冷静沈着であるべきと執拗にこだわり続ける浦辺は、いわばマクベスを裏返しにした人物と言えるかもしれない。浦辺の中にもマクベス的な猜疑心や疑念が渦巻いているのだが、表面上はそれを見せず冷静に振る舞うことに固執する。しかし浦辺は自身がその冷静さにこだわる自分を自覚していないのである。村松はこの浦辺の造形によって喜劇と悲劇の本質的な人物造形の違い、マクベス的な苦悩や悲劇性が人物の性格の中にある客観性にあることを示している。

 浦辺と秋子が犯行の隠蔽、無関係を装い続ける中盤、主人公夫妻を追いつめていくのは警察ではなく総理秘書官の後藤である。頭の切れる後藤が浦辺たちのもくろみやトリックを一つ一つ暴いていく様は爽快でありつつもスリリングな場面である。読者はここまでで浦辺や秋子が頭のいい人間であり無計画な殺人犯ではないことを知っているのだが、罪と罰におけるラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリィの対決のように総理秘書官後藤はその上をいく頭の良さで浦辺、そして読者を絶望に追い込んでくる。ここで総理補佐官の浦辺と総理秘書官の後藤の確執、立場の微妙な違いなども描かれ、一般人の我々の知る事のない首相官邸内における人間関係や政治ドラマが殺人犯と名探偵という枠組みの中で浮かび上がってくる。言うまでもないことだが後藤に淡い思いを抱いている秘書官の後輩谷口瞳はワトスン役として存在しており、後藤を名探偵役として際立たせている。ここにきて物語は犯人対名探偵という構図が明確になり、後藤の推理によって主人公浦辺は完璧に追いつめられる。これで終わりかと思われた所で、今度はこの後藤が殺されてしまう。

 ここから物語は最終的な局面へと向かう。これまであいまいになっていた浦辺の記憶が少しずつサブプロットからメインプロットへと浮かびあがってくるのだ。ここでの村松の筆さばきは驚くべきもので、主人公の記憶のあいまいさを序盤は物語世界への導入として使い、それが終わると今度はそれが主人公が本当に殺人犯なのかという謎に移し替えているのだ。そう「首相官邸殺人事件」は倒叙ミステリとして幕を開けつつもその後は名探偵と犯人、そして最終的に犯人は誰かという古典的な探偵ものへと変貌を遂げるのである。首相殺しと後藤殺しは果たして同じ人物なのか、それはもしかして主人公の浦辺なのか、はたまた真犯人は他に存在するのか、記憶があやふやである浦辺の語りはどこか含みもあり、信頼できない語り手そのものである。しかもここにきて浦辺の喜劇的な人物造形が活きてくる。なにしろ「犯人が名探偵役になる」という思わず笑ってしまいそうな大転換が起きるのだ。後藤の死により当局からの目が一層厳しく浦辺に向けられる中で、浦辺は真犯人を追い求めてスラップスティックコメディのようにドタバタと首相官邸を駆けずりまわる。

 浦辺がこの後に迎える結末は当然ネタバレなのでここでは控えておくが、悲劇とも喜劇ともつかない終わりが独特の余韻を残すことだけは書いておきたい。終始追いつめられ慌てている情けない主人公の最後にとった行動。犯人が探偵となった行く末。メロドラマ的ともいえるかもしれないが私個人としては胸の打たれるものだった。

 この「首相官邸殺人事件」は以上のような三幕構成となっており、マクベス的な倒叙ミステリ、罪と罰的な探偵もの、最後はスラップスティックである。特徴的なのはマクベス、罪と罰、シャーロック・ホームズなどへのオマージュが見られることだ。最後のドタバタ劇も何らかのオマージュと思うのだが私は寡聞にして引用元の作品を特定できなかった。もしご存知の方がいらっしゃったらご教示願えれば幸いである。この村松の過剰なほどのオマージュ、目配せは何を意味しているのだろうか。これは私の推測にすぎないのだが、この「首相官邸殺人事件」自体が江戸川乱歩の「孤島の鬼」へのオマージュだったのではないだろうかと考えている。もちろん「孤島の鬼」と「首相官邸殺人事件」は探偵小説であるという点ぐらいにしか共通点はないし、村松が「孤島の鬼」を読んでいたかもわからない。しかし乱歩の「孤島の鬼」が過剰なほどに探偵小説へのオマージュを盛り込んでいることと村松の「首相官邸殺人事件」の様々なオマージュは違うようでその精神においてごく近しいものではないかと思えるのだ。つまり乱歩にとっての「孤島の鬼」のような作品を村松は作りたかったのではないかということだ。ここで、村松の「首相官邸殺人事件」執筆の動機、そして今日においてこの名作が忘れ去られてしまった事情についての私見を述べたいと思う。

 まず、村松の執筆の動機だが、一つには先の「孤島の鬼」があると思われる。自らが師と仰ぐ、あるいは愛好する作品への私的なオマージュである。そしてもう一つには当時の政治情勢があると思われる。昭和三十年代といえば安保闘争の時代である。閣僚の辞職や強行採決、連日のデモなど政治は混乱を極めていた。そうした時代のうねりの中で、村松は一種独特の目でこの国を眺めていたことがわかる。本書の浦辺と後藤の対話を引用する。
『「しかしね、君、この国に生きるすべての人が満足する政治なんてものは存在しないんだよ」「だからと言って強引に事を決するというのは民の上に立つ者の怠慢だ。我々にできる事に限界があるのは確かだが、だとすれば、なおの事、我々政治家は国民に説明する責任がある。政策にどのような利点がありどのような欠点があるのか。その政策を取ることで未来がどう変わるのか、政策を取らない場合何が起こるのか。」』
やや諦念を感じさせる浦辺と理想主義者の後藤の対話は首相殺しの動機と密接に絡みつつ、この応酬の裏で後藤は浦辺に自首を促していく。村松の作家としての経歴にはこの後触れるのだが、このような社会派的な要素は彼の作品群の中で他にない。そしてその村松は政治の善悪というよりも政治家の「言葉」に注目しているように読み取れる。一つの行為は一つの結果を生み出し、全ての結果には両義性がある。得をする人の反対には損をする人がいる。村松は「首相官邸」という場において政治の本質を結果ではなくその説明によって国民を導くことと表現している。それはまさしく「言葉」によって読者を導く村松の作家としての生活そのものであった。現代においてはもしかするとこの浦辺と後藤の対決による政治的なドラマと駆け引きはより切実なものとして読めるかもしれない。

 最後に、本書が日本のミステリ史から忘れ去られてしまった事情について述べたい。結論から言ってしまえば本書の解説に書いてあることが全てなのだが、村松恒雄が官能小説家だったということに尽きるのではないだろうか。私が冒頭で述べた、いささか肩透かしの通俗的な事情とはこのことである。残念ながら現在において村松恒雄(ちなみに村松は松村行幸という筆名で官能小説を書いていたようだ)の官能小説は入手困難であり、それらの作品がどのようなものであったかは全くわからない。解説では「団地の獣」という作品を引き合いに出しているが、それも「首相官邸殺人事件」とは全く趣の違う作品であるということを言うためだけの内容のないものであった。一方で「首相官邸殺人事件」は官能小説家の手によるものを隠そうともしておらず、浦辺の妻秋子は蠱惑的な人物として造形され事あるごとに媚態をさらす。夫の浦辺との情事だけでなく、過去にあった首相との不倫関係、追及してきた刑事を誘惑して関係を持ち、また主人公の浦辺も秋子以外に谷口とも関係を持つなど随所にそうしたシーンがはさまれる。これが村松の意図であったのか編集者からの入れ知恵であったのかわからないが、いずれにしてもそうした場面の数々は本書の喜劇的な雰囲気の中で妙にねばっこい異様さを漂わせている。私としてはこうした場面が本書の持つ風格をかなり損なうものではないかと思うのだが、それはともかくとして、官能小説家の書いた探偵小説は世間においてその程度にしか顧みられなかったようだ。実際の本書は倒叙から探偵ものへの転換、犯人が探偵になるなど大胆で先進的な構成の作品なのだが、その当時それを正しく評価する人間はいなかったようである。おそらくかなりの部数が刷られ多くの人間が読み、そしておそらく多くの人間を楽しませた本作は、読んだ人間のほとんどがそれを省みる事もなく古本屋へと持って行く運命をたどった。ただ消費され後には何も残さなかった。人間は先入観や思い込みから逃れる事のできない生き物である。おそらく刊行された当時「官能小説家の書いたもの」というレッテルの中でしか読まれなかったのだろう。そしてそれは自室の本棚にいつまでも置いておくようなものでもなかったのだろう。いわばミステリ風味な官能小説として、もしかすると肝心のミステリ部分は読み飛ばされるように読まれていたのかもしれない。多くの人間が読みながらも、しかしその場限りのものとして時の流れの中で忘れ去られてしまった。「首相官邸殺人事件」をとりまく今の状況は、目まぐるしく移り変わる流行の中で娯楽や作品を消費し続ける私たちのこの先の未来において、作品存在の不確かさを疑問として投げかけるものだ。もしかすると今の私達が入手するに困らないような作家の名作が、作品たちが、ふとしたきっかけで姿を消した時「首相官邸殺人事件」と同じような運命を辿らずに済むだろうか。未来においても優れた作品は確かに存在し続けるのだろうか。書棚の多くはその所有者の死とともに残された家族の手によって処分されてしまう。古本屋へ、あるいは古紙回収へ。いやそうした物質的な話ではない。優れた作品といえども、その存在はいとも簡単に消えうる。十年前どこにでも新刊で売っていた本が、今では古本屋にしかないという事がごく当たり前にある。もし読者の誰かが真っ直ぐな目で向き合っていれば、評価していたら、書評を書いていたら、感想を送っていたら、「首相官邸殺人事件」は今でもミステリ誌のランキングなどに時折登場しては通好みの読者をニヤつかせるような存在になっていたかもしれない。

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