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A君:〈集団自決〉の話

今まで書き切れないほど、A君の小学校警備室からの「暇つぶし電話」は かかってきた。彼はじぶんのスマホでしかかけてこないが、30分は短い方、たいてい1時間近い話で、あちこち飛びながら、昔のことや最近のことなどに及ぶ。

先日は夏休みの真っ昼間にかかってきた。子どもたちはいないが、校長と  生徒相談員の先生の2人だけ来てるほど、閑散としてるのだ。

話の終り頃に、私の『風さわぐ北の町から』の舞台は、どこだったかな? と 彼が言い出した。「ピョンヤンから45㎞くらい離れた鎮南浦よ。港町の・・」と答えると、彼は先輩のY氏から聞いた話を始めた。

その人は終戦時、満州国境警備隊の一員で、300人ほどの関東軍の一団  だったという。ソ連軍が参戦したニュースが入ったが、ソ連との戦いは何もなかった地域だった。天皇陛下の終戦勅語が発表されてまもなく、関東軍  本部司令部から電信が入り、「全員、自決せよ!銃で互いを撃て!」という命令だった。

Y氏は21歳だったが、死んでたまるか、と思い、逃げることにした。暗いのを幸い、周囲の仲間10人ほどで拳銃だけは持ってこっそり逃げ出した。途中で気になって、近くの藪陰にひそみ、残りの者たちの様子を窺った。夜の8時半を合図に、バンバンバンバンバンと激しい銃の音が鳴り響いた。皆、命令は当たり前のこととして、相手と向き合って撃ち合ったのだ。音はしばらく続いていた。

周辺を見張りして回っていた上役連中が2、3いたらしく、目くらめっぽうに銃で藪の周辺を撃ち始めた。Yたちはあわてて這うようにして、とにかく逃げに逃げた。

途中で軍服姿では目立つので、どうやって手に入れたのか、普通の服に着替え、10人では目立つから2,3人ずつに分れた。

関東軍に置き去りにされて、自分たちで逃げるしかない女子どもたち老人の群れが、いくらでも目についた。誰もが新京  (満州国首都) を目指していて、Yたちはその一団に、紛れ込み、いっしょに新京まで行った。

新京では、ある日本人の「割烹店」がソ連軍に占領されていて、そこへ入り込んだ。そこには60~70人の女たちがいて、売春宿になっていた。客としてソ連兵たちや日本人らが来る。Yと友人は店の掃除をしたり、裏働きの仕事をし、女たちが夜仕事して働いていた。

その後、友だちと2人で逃げて、なんとか船で友だちの郷里の大分へ戻ったが、〈逃亡兵〉なのだから、怪しまれないよう、ずいぶん気を遣った。時間をかけて、ようやく自分の実家のある東京へやっと帰れた。あの時の銃の音と、自決した仲間たちが頭から離れず、この話はだれにもしたことがない。戦争を始めた奴らは、終らせるのも「自決せよ」のひと言なんだぜ。死んでたまるか、と言ったY氏の言葉が耳に強く残った、とA君は言う。

これが日本軍の敗戦時の受け止め方だったのだ。なんと無残な無益な死を、強いたものかと、命じた側の無責任さに激しい怒りを覚え、その命令に従った兵士たちの無念と痛ましさを痛切に感じた。


(しばらくお休みさせて頂きます。受賞後の忙しさと、別件の著作権問題が長引いており、原書と私訳を見直したり、私訳と参考にせよと当時渡されていた抄訳版とを、1行ずつ見直す作業を続けておりますので、時間がとれません。落着くまで待っていて下さると有り難いです)

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