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(私のエピソード集・5) 黒い人影

明るい人と言われていた私が、自殺のため夜中に、線路に向かうことになるとは!

 大学時代に『袋小路』の体験の後に、もうひとつ辛い思い出がある。正月の帰省時に、大学は退学せず、自力で残り2年を頑張る、と母に宣言。N教授の口添えで、学費の心配はなくなったものの、家庭教師のアルバイトは、週6日続けていた。

 当時、私はシェイクスピア研究会に属していたが、毎年4月後半に、チャペルの隣の大講堂で、劇公演を催している。その年の演目は『リヤ王』と決まり、新3、4年生の背の高い人や、体格のいい人は男役に、小柄な私は、最悪女の長女ゴネリルに指名された。

 出番もせりふも少ないコーデリアには、私よりもさらに小柄で、細身の人が選ばれた。というのは、リヤ王役の女性が、最終幕で、死んだコーデリアを抱き上げて、登場する場面のために、軽い人でなくてはならないからだ。

 授業や期末テストの後に練習は続き、やがて春休みとなった。休みの後半は、寮が閉じてしまう。寮生で、劇に関係する数名は、帰郷はせず、練習と準備のため、寮を出ていっしょの宿で、共同生活をすることになった。

 せりふ暗記、自分の衣装は自分で縫い、食事当番、アルバイト・・と毎日がくたくた、へとへとだった。まして、大病後の超低血圧症の身だから、口もきけない状態だった。

 そんな時に、1年次に寮で半年間同室で、時どき妙な質問をするAが、この日も私に問いかけてきた。

 「生きる、って、どういう意味があると思う?」と。

 元気な時だって、漠然としていて、すぱっと返事ができる問いではない。Aは今までも「愛って、なに?」とか、「奥さんのいる人を愛するのは?」とか、返事しにくい質問を、大真面目に訊いてくる。私が答えられずにいると、彼女は決まって、見下した表情になる。

 この時も、私は返事ができなかった。答える内容を、思いつけないだけではなく、それよりも実際に、声が出せなかった。私の低血圧症の症状は、疲れやすいことの他に、舌が上あごに張り付くように、粘って離れなくなり、口が利けなくなることだった。疲れが限界に達すると、こうなる。この時がまさにそうだった。   

 Aはしばらく待った後、「あなたって、不誠実ね!」 と、バシッと言い放った。私は人格を全否定されたような、刺されたような痛みを覚えたが、反論できず、言い訳もできなかった。

 不誠実! 懸命に考えたって、生きるってことにどんな意味があるのか、日々の生活に精一杯の私に、答えなんて思いつかない。今までの彼女のどの質問にも、まともな意見は返せやしない。勝手に「不誠実」とでもなんとでも、言えばいいさ、あなた自身はどう思うのよ、と開き直れたら、どんなに気がラクだったろう。

 その夜、床についてからも眠れず、ああ、つかれた、つかれた・・と、頭の中が白くなっていくような、無力感、脱力感を覚えた。健康そうな寝息を立てる仲間たちの中で、夜中まで目を開けていて、ふっと今の状態から抜け出したい、と立ち上がってしまった。

 外は3月末とはいえ、コートを着ていても、春まだ遠く凍りつく寒さだった。無意識に私は駅へ向かっていた。このまま死ねたらラクだろな。こんなに疲れたままでは、何もできやしない。死んでしまおう、そう思い、駅の向こうの踏み切りまで行った。

 でも、いくら待っても、電車は来なかった。もう2時を越えていて、終電は行ってしまっていたのだ。

 私は方向を変え、自動車の通行激しい、甲州街道へ向かった。そこへ行けば、夜中でも自動車が、たくさん走っているはず・・。

 かなりの距離があった。暗い歩道をひたすら進んでいると、道の脇でもつれあっていた男が二人、私に目をつけて、つかみかかるように絡んできた。酔っ払いだった。私は振り切って車道へ降り、足を速めた。男たちはよろめきながら、追ってきた。

 ふとあたりを見回すと、向かい側の歩道で、足を止めている黒い人影が見えた。あの人も同じ輩(やから)か? 怖くなって、私はさらに足を速めた。

 すると、その影も私を追うように、早足についてきた。酔っ払いたちは諦めもせず、ついてくる。私は必死で逃げる。影は私を追ってくる。

 かなり逃げて、酔っ払いたちの足音が聞こえなくなり、振り返ると、彼らのもつれる姿が遠くに見えた。例の人影は、私に合わせてか、歩みをゆるめていた。影がこちらを見ている・・。

 私ははっとした。あの人、私を見守ってくれていたんだ。無事に逃げられるまで、見届けてくれていたのだ。胸にあったかいものが芽生えて、涙ぐんでしまった。死へとまっすぐに向かっていた気持ちが、ふっと別次元にそらされたようだった。

 そのとたん、これまでの精一杯頑張って、明るくふるまってきた、自分の姿が思い出された。こんなことで、へこたれてたまるもんですか! 原因と言えば、ただの言葉じゃないか。たったのひと言で、死んでしまうなんて、ばかばかしい! ほんと、ばかみたい!

 見も知らない人が、他人の私を、気にかけてくれているのよ。そう簡単に、人生を捨てるもんじゃない! 生きる意味が何であろうと、生きるのよ、と自分に言い聞かせ、向こう側の歩道の、黒い人影に、深く頭を下げて、宿に戻る道を辿ったのだった。


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