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 4章-(6) 名前を文字で

あんちゃんが夕方帰ってくる前のこと。かよは自分が学校で教わっている  文字を、とめ吉にも地面に書いてみせたくてたまらなくなった。足なえの  保だって、真似して書けるのだから、7歳のとめ吉にもできるはず。年は  ひとつしか違わない。啓一は6歳から習ってると言ってたのだ。

洗濯物を干し終わると、とめ吉とすえに棒きれを持たせ、庭先にしゃがませた。

「あんな、ねえちゃんはお屋敷で、学校へ行きょうるんじゃ。そこで字を 習うとるん。ほんとは帳面ていう、紙に書くんじゃけど、帳面は買えん  けん、地面に書いて覚えとるん。とめ吉の名前は簡単じゃけん、書けるで」

トメキチ、とまず書いてみせ、順番にひとつずつ真似させた。かよは学校で習うのは、そこまで進んでいなかったが、あばれの作造の娘のみさに、トメキチとスエの名前だけ、あの地蔵堂の裏で、地面に書いてもらって、覚えてきたのだ。みさはかよに弟や妹がいることを、ひどく羨ましがって、いつか会わせてな、とかよに頼んだほどだった。

とめ吉は面白がって、すぐに真似して書き始めた。そこら中に何度も書いて見せる。

すえはやたらに線を引いているだけで、それでも楽しそうにしている。

かよはすえには、自由にさせておくことにして、とめ吉に言った。   「面白いじゃろ。とうちゃんもあんちゃんも、まだ字は習うとらんけど、 とめ吉が大きうなるころは、みんな字を書けるようになっとるて思うで。 中島の学校にゃ、5つや6つの子もぎょうさん来とった・・ここも学校が じき近うにあるが。行けたらええのにな」

「ふうん、がっこうは行けるかわからんけん、オレ、ねえちゃんに教えて もらうのがええわ。ねえちゃんの名前も、すえのも、書きてぇ、書いてよ」

かよはよかった、とめ吉が最初からこんなにやりたがってくれて、と嬉しくなった。

すぐに、スエとカヨを書いてみせると、とめ吉はそれを見て、しばらく庭の土の上に何度か書いていたが、何を思ったのか、つと立ち上がると、今度は、軒下の土に、字を深くなるように、力をこめて、時間をかけて、3つ書き上げた。

「ねえちゃん、オレ、忘れんようにここに並べて書いとくわ。これがオレ、こっちがスエ、2つしかねぇけん、すぐわかるで。ねえちゃんのも2つじゃな、カヨ。面白ぇ形じゃなぁ。ヨは馬鍬まぐわみてぇなが」

「ほんまじゃな、ウフフ。うちもまだちょびっとしか習うとらんけん、この次、もっとぎょうさん覚えて来るけん、楽しみにしとってな。とうちゃんと、あんちゃんのもそこに並べるとええな」

とめ吉がこんなにすばやく書き写せることに、かよは驚いていた。教えれば、いくらでも覚えてくれそうだ。自分もちゃんと勉強してこようと、思った。そうだ、今度はあの古い本と帳面を持って来て見せれば、もっと面白 がるだろうと、かよまでワクワクしていた。かよにも何かが開けるみたいな、心に何かが積もっていくみたいな、嬉しさがあった。  

あんちゃんが帰って来た時、外はもう薄暗かった。あんちゃんは手に、橙色の小さい花をつけたツツジの小枝を3本にぎっていた。とめ吉はあんちゃんが帰ったとわかると、台所から飛びだして行った。かよとすえも追って外へ出た。

「あんちゃん、ここ踏まんでくれ。ねえちゃんがオレとすえとねえちゃんの名前の、書き方を教ぇてくれたんじゃ。忘れんようにここに残したんじゃ」

「へえ、字か。へえ、とめ、ぼっけぇこと始めたのう。字が書けりゃ、大きうなって役場で働けるかもしれんで、へえ、とめ、偉ぇのう」

あんちゃんは3つの名前を薄闇にすかしながら、しげしげと眺めていた。

「かよ、わしの名前もとめに教えちゃってくれや。こげんして並んどるの 見たら、オレのも並べて欲しいがや」

かよは首をすくめながら言った。                  「今度帰る時にゃ、覚えてくるわ。カの字は、うちと同じじゃけど、ズとオはまだ習うとらんのん」

「ついでに、とうちゃんのもな。ヒヤッハ! うちの皆の名前がここに並ぶとええぞう」

あんちゃんまで喜んでくれて、かよは学校へ行ってるお蔭があった、とほんとに嬉しくなった。

「そうじゃ、こいつを忘れとったが。お屋敷へ土産にこれ持ってっちゃれ。本家の庭にあったやっちゃ。ええ色じゃろが」

あんちゃんが土産を思いついてくれて、かよはほっとしていた。何も思いつかなかったのだ。

あんちゃんはその後、ヒヨコの小屋仕上げにかかってくれたのだった。

とうちゃんは中島に泊まり込みの時期で、留守だった。


かよは夕食を終えた後、もう1度シカ婆を訪ねた。嫁さんのツネさんがかよの揚げせんべいを、ありがたがって何度も頭を下げた。        「あのお蔭で、ちいっとばぁ、元気が出たみてぇで、助かったで。もちっと長生きしてくれんとなぁ」

シカ婆はかよの手を両手で掴んで、押し頂いた。かよはその手を撫でながら励ました。                            「婆ちゃん、また7日たちゃ、来るけん、待っとってぇな。また揚げ持ち 持って来るけん。ほんまに長生きしてぇてな」

心残りもあったが、朝見た時よりは力が出てきたようだった。

「朝が早ぇけん、わりいけど、帰って早よ寝るわ。さいなら、婆ちゃん」

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