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(90) 一度きり

アパートの階段を足音ひびかせて上がってくるのは、たしかに夫でした。それにしても、あの歌声は?

畑さんは耳を疑いました。夫はただの一度も歌などきかせたことはないのです。音楽教師の妻に採点されるのはごめんだ、というのが本音のようです。

なるほど、マイナス点でも進呈したいほどの、調子っぱずれでした。

「ピンボーン、ピンポーン!」

ベルを鳴らす代わりに、ドアの外で大声張り上げています。

「おかえりなさい、ですようー」と、自分で叫んでいます。

酒もタバコもだめ、の人がこのはしゃぎぶり、いったいどうして?

ドアをそうっと開けてみると、赤黒いまでに顔を染めた夫が、揺れていました。

「やれやれ、わがやだ!」

ゆらともたれかかる大男を、やっとのことで引き入れました。


IMG_20210926_0016 一度きり


畳の上に伸びて、天国にいる表情で言うのです。

「酔うとね、すぐ足元の地面しか見えないんだよ、知らないだろ」
「・・・・・」
「オレ、君の親父さんより強いな。乗り越さないで、ちゃんと帰ったろ」

それきり、高いびきです。
まあ、いばったりして! 毛布をかけながら、畑さんはくすくす笑いました。


「後輩の手前、断れなくてさ・・」
翌朝、痛む頭を抱えて、夫は青息吐息です。もう、こりごりだ、と。

どうやら、一度きりの酔っぱらいに終りそうです。ことわる勇気を取り戻せるものなら・・。


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