(90) 一度きり
アパートの階段を足音ひびかせて上がってくるのは、たしかに夫でした。それにしても、あの歌声は?
畑さんは耳を疑いました。夫はただの一度も歌などきかせたことはないのです。音楽教師の妻に採点されるのはごめんだ、というのが本音のようです。
なるほど、マイナス点でも進呈したいほどの、調子っぱずれでした。
「ピンボーン、ピンポーン!」
ベルを鳴らす代わりに、ドアの外で大声張り上げています。
「おかえりなさい、ですようー」と、自分で叫んでいます。
酒もタバコもだめ、の人がこのはしゃぎぶり、いったいどうして?
ドアをそうっと開けてみると、赤黒いまでに顔を染めた夫が、揺れていました。
「やれやれ、わがやだ!」
ゆらともたれかかる大男を、やっとのことで引き入れました。
畳の上に伸びて、天国にいる表情で言うのです。
「酔うとね、すぐ足元の地面しか見えないんだよ、知らないだろ」
「・・・・・」
「オレ、君の親父さんより強いな。乗り越さないで、ちゃんと帰ったろ」
それきり、高いびきです。
まあ、いばったりして! 毛布をかけながら、畑さんはくすくす笑いました。
「後輩の手前、断れなくてさ・・」
翌朝、痛む頭を抱えて、夫は青息吐息です。もう、こりごりだ、と。
どうやら、一度きりの酔っぱらいに終りそうです。ことわる勇気を取り戻せるものなら・・。
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