『マリッペ』追記(3)
岡田のおっちゃん夫妻については、隣同士で暮し始めた5年生の初めから、興味を惹かれ続けていました。
おっちゃんの首に目立つ、白い包帯のなぞ。職業がつぎつぎ変わること。 決して笑わない人だったこと。私が包帯の謎を知ったのは、20年後近い頃のことでした。同級生の T 子が教えてくれて、あんた今まで知らなんだん、とほんとに驚いた声を上げました。かなり離れた地区の T 子でさえ噂は聞いていたし、他の人も知っとったのに、隣に住んどったあんたが知らなんだんか、と。
岡田のおばさんは気がよさそうに見えて、小5から中学生の頃の私をつかまえては、村の人の悪い噂話や、浮気をしている人の話など、秘密めかして話すので、汚れた裏の姿を見せられるようで、人間が信じられなくなる気がしたものです。(読み始めていたバルザック、フロベール、トルストイなどの世界が、身近に現実にあるのだと知り、大人世界に幻滅、暗い気持ちになりました)
おっちゃんは戦後、どこかでブローカーとして大もうけをしたそうで、西浦地区で一番広い土地を買い、自分で設計した平屋建ての屋敷と、さまざまな種類の樹木を配置し、池や井戸、離れの部屋もしつらえて、この地区へ里帰りして暮していたそうです。
その後、何かで大失敗して、文無しとなり、村の人たちの温情で、村の 小さな公会堂にあった10畳ひとまの管理人として、夫妻で移り住んでいた のです。
おっちゃんが建てた300坪近い家屋敷に、どういう手づるでだったのか、私たちの一家が移り住むことになり、その恵まれた住まいに大満足していたのですが、2年後に、その屋敷に買い手がつき、私たち一家8人は住み 家 をなくして困っていました。そのとき、村の人たちが、公会堂の物置部分 だった所を住めるように手入れして、住まわせて下さって、おっちゃんと 壁一重の隣同士となったのでした。
私の一家はその後、兄が倉敷の町中に家を建て、電気屋を始めていたので、そこへ同居することになって、移り住みました。2年後に、私は大学進学のため上京して以後、東京住まいですので、おっちゃん夫妻のその後は、その地区の同級生だった0君がTELや同窓会の折などに、伝えてくれました。
O君の話によると、その公会堂を丸ごと、買いたい人が現れ、おっちゃん夫妻は、裏山の中腹にあった、法輪寺境内の一郭の小部屋に移ったそうです。年を取ってから、山への上り下りは大変だったろうと、察せられました。
そして、病を得て、ほんとうに晩年となった時、おっちゃんは西浦地区に いた、実の娘に引き取られ、娘の元で最期を迎えたそうです。おばさんの 方は、広島の方にいた親戚に引き取られ、2ヶ月後に亡くなった、と聞いている、と0君が話してくれました。
おっちゃんは、ほんとうに修羅の生涯を生ききったのだと、ご冥福を祈りました。
このマリッペの物語の中で、紙芝居やキャンデーや、自転車乗りを通して、子どもたちとの交流を持てていたことを描くことで、おっちゃんの生きて いた姿を残せた気がしています。
こんな裏話を書くのは、余計事と思いますが、あの小さな農村地区のある 時期の行事や暮らしを、書き留めておきたかったのです。最後まで読んで 下さって、ほんとうに有り難うございました。
次は、まったく趣を変えた「児童物語」を載せる予定です。また訪ねて頂けましたら、感謝です。
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