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1章 -(9) 寮監先生の話

江元寮監先生は、テーブルにグリーンティとクッキーを添えて、待っていてくれた。

「ルームメートとお話できましたか?」

先生は開口一番そう訊いた。

「はい」

「そう、それはよかった。あなたの自己紹介を拝見したら、あの内山さんを同室にしたらいいのでは、と思えたの」

香織は思わず頬を染めて、ニコッとした。ほんとにぴったりだと思えた人 だった。

その笑顔を見て、先生はほっとしたような表情になった。

「私はこの寮の寮監になって、これで5年目になりますけど、まだ慣れた 気がしていないの。いろいろな人を40人も昼夜見守るのですものね。

実はね、私がこの職に初めてついた年に入った方たちが、とても大変な方 たちだったので、新米だった私は、この仕事を続けられるかしら、と自信を無くしてしまって・・。今だに引きずっている感じがするの。あなたの自己紹介を読ませて頂いて、自分に自信を持てない点では、私と同じねと共感してしまいました・・それで、ちょっとお話してみたくなったの」

香織はびっくりしてしまった。先生でもそんなに長く引きずって悩まれるのだ。そんな話で、私は呼ばれたのだろうか。

江元先生が香織を〈かえで班1号室〉に入れたのは、最初にそのへやに入った、5年前の1年生の2人が、忘れられないからですって。

「ひとりはユキさんと言って、小柄だけど、人の心に灯をともす力のある人でした。クラスでも人気者のようでしたよ。入寮の自己紹介に〈なるべく  気高く〉が私のモットーです、と書いてましたけど、それは元気で突拍子もなくて、地下室で行方不明事件を起こしたり、クルクルパーマ姿で入寮してきて、それには理由があったのだけど、上級生たちの顰蹙ひんしゅくをかったり、朝起きられず掃除当番が苦手で、私が退寮を勧めたこともありました。

でもね、同じへやのマスミさんが、入寮以前に自殺を図ったほど悩んで、 暗くなっていたのを、ユキさんの知恵と粘りと純情で、マスミさんの悩みを解決してくれて、それは明るい人に変身させてくれたの。ユキさんは正直なタチなのに、マスミさんを救うために嘘をついたことに、ご自分を責めて  いましたけど、マスミさんにとっても、親御さんにも私にとっても、それは  ほんとに有り難い嘘でした」 [註『あじさい寮物語 (1) 』に詳しい]

「2学期に、寮に女の泥棒が入ったときには、星城高の男子生徒とユキさんの2人が中心になって、捕まえてくれたり、ホームシックで寮を抜け出して家に帰ってしまった人を、寮で暮したくなるようにしてくれましたね」     
                                                                        [ 註『あじさい寮物語 (2) 』]

香織は聞き入っていた。そんなすばらしい活躍をした人がいたへやに、自分が入れてもらえたなんて、元気をもらえるかも・・。〈なるべく気高く〉  なんて、すごいな。背筋をまっすぐしたくなる感じ。香織の〈なんとか        なる〉のおまじないだと、肩の力がぬけてる感じだ。少しはまねした方が いいのかな・・。 ユキさんを忘れないでいよう!

先生に紅茶を勧められ、香織もカップを手にして、やっと質問してみた。

「そのユキさんて人、優秀だったのでしょう?」

「それがね、そうでもなかったの。数学は赤点をとりそうなほどすれすれだったり、よくても半分くらいで、苦労していましたね。英語もそうよくはなかったの。手紙は、いっぱい書いていたようで、厚い封筒をかかえて、学内のポストへよく走っていましたね。それで勉強するひまがなかったのかも。

ユキさんは試験のある時は、全力没頭して、それ以外の時は、やりたいことを楽しんでましたよ。同室のマスミさんは勉強一筋で、毎日たゆまず続ける秀才で、大学も T 大の医学部に進み、今も勉強中ですけど、ユキさんは作家になりたいと、大学は文学部を選んで、この4月から、出版社に勤め始めています。先日も、私に手紙をくれましたよ。ユキさんは苦手な学科を、マスミさんに教わったりしていたようです」

香織は目を丸くした。作家になる? 勉強はそれほどでもなかったのに?

「ユキさんは、2年生の時、ある作品募集に参加して、優秀賞をもらった こともありました。書くことはずっと続けていたようですね。

それより、もっと大変な出来事が1年の3学期に、あったの。ユキさんは、たまたま、寮でのその事件の証人の立場になってしまい、真実を語れば友 だちは罪人になるし、友だちをかばって嘘の証言をするかどうか、ずいぶん悩んでいました。私も寮母として、大きな責任を背負うことになり、ほんとに辛い時でした。ユキさんはその時、私の力になってくれて、どれほど助けになったことか・・。 [ 註『あじさい寮物語 (3) 』]

クリスチャンの私は、神さまにお祈りすることと、学園の会議で実情を説明することしか、できなかったのですけど、あの人は悩みながらも、ほんとに〈なるべく気高く〉を心がけていたのでしょう。あの体験のせいもあって、ユキさんは作家になりたいと思ったのかも知れません。

あの時ほどひどいことは、今までに他にはありませんでした。小さな問題事は毎年何かありますけど、ほぼ穏やかに過ぎています。今思えば、あれは私への試練だったのかも、と思っています」

試練、という言葉をあとで調べよう、と思ったほど、先生のその言葉が、  強く香織の心に残った。

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