見出し画像

(1) みやげは台なし

海水の入ったビニールぶくろを、両手で支えながら、一郎の足はひとりでにかけ出していました。となりのトオル兄ちゃんが、もうひと月も待ちくたびれているでしょう。夏休みの半分以上、一郎は、毎年千葉のおじいちゃんの、海の家ですごしています。

今年も出かけようとした時、お兄ちゃんがこんなことを言い出しました。

「イチロが海から帰ったら、サンダースにつれてってやるよ。タマひろい させてやってね、ってみんなにたのんでみる」

一郎はわくわくして、海行きをやめたくなったくらいでした。サンダース というのは、〈やなぎマンション〉の野球チームです。3年生から6年生の男の子たちが、ちょうど9人入っていました。一郎はチビの2年生。キャッチャーで5年生のトオル兄ちゃんがいなかったら、なかまに入れてもらえるはずはありません。

一郎の背中でリュックがゆれています。手元の海水がタプタプ鳴ります。ヤドカリと子ガニが、ビニールぶくろの底でさわいでいます。

これ、海のおみやげ、ってさしだしたら、お兄ちゃんは目をぐりぐりさせて、よろこぶでしょう。

とうふやの角をまがると、10かいだての〈やなぎマンション〉がぬっと見えてきました。1かいから10かいまで、ふとんやせんたくものが、にぎやかに夏の日をあびています。がらんとしたベランダのところは、るすのようです。

3かいのはしの一郎のへやの外も、そのとなりのトオル兄ちゃんのベランダも、すっきり何もありません。

〈へんだな。プールに行ったのかな〉

一郎は、もう一度見上げて、なぜかドキンとしました。見なれた日よけのカーテンが、ありません。ベランダのさくの中が、空っぽ。いつもだと 虫かごや鳥かご、つりざお、野球のバットにミットにグローブに・・・とトオル兄ちゃんの七つ道具が、ならべてあるはず。それがなにひとつ見えません。

一郎は大いそぎで、マンションのエレベーターめがけて、かけて行きました。
入り口でふりかえると、駅までむかえに来たお父さんとお母さんが、よう やくとうふ屋の角を、まがってくるところでした。おじいちゃんが持たせてくれた、たくさんの海のおみやげの入ったカートを2つひっぱっています。

(おじいちゃんのごほうびのこと、一番に知らせなきゃ)

エレベーターの中で思い出して、一郎はわくわくしました。10月の中ごろに、ピッカピカの自転車が、千葉のおじいちゃんから届くはずです。じょうぶになるために、ひとりで海に来る一郎が、ことしは、一度もベエベエ泣かなかった〈ごほうび〉だと言うのです。

サンダースに入れてもらえたら、その自転車で、トオルお兄ちゃんにくっついて行けます。サンダースのれんしゅう場は、遠い〈つくしの団地〉の近くのあき地でした。日曜日の朝になると、やなぎマンションの自転車たいが、かけ声をかけながら、とび出して行きます。その時だけは、一郎は、3階のベランダから、お兄ちゃんを見送るのでした。

エレベーターが止まりました。一郎はまっすぐに、お兄ちゃんの302号室へ、かけつけました。ゆうびん受けのふたを上げて、大きくよんでみました。

「お兄ちゃん、ただいま!」

その声が、ろうかにこだましました。中はしんとしています。

その時、カチャリと音がして、303号室の、戸山さんのおばさんが、首を出しました。

「田中さんは、おひっこしなさったの。きゅうに北海道へ転きんですって。ここに手紙を、あずかってますよ、ほら。一郎ちゃんとお母さんに」

一郎は、ぼんやりとおばさんを見上げていました。その手に、おばさんは 紙づつみをにぎらせて、するりと戸のかげに消えました。

(ひっこし? お兄ちゃんが?)

そんなはずはない! このマンションに来て、2年になります。となりのトオル兄ちゃんとは、ひとりっ子どうしの、男どうし。学校へ行くのも、つりに行くのも、おやつを食べるのも、いつもいっしょでした。時どきは、どちらかのへやに、とまりっこもしました。そのお兄ちゃんが、きゅうにいなくなるなんて!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?