1章-(2) 夜逃げ・父蒼白
時計は約束した4時の5分前だった。やっぱり明美のことが気になってならない。
みゆきはボトルを置くと、レースのカーテンの間から隣の庭をのぞいて 見た。このあたりでは、3軒分以上もある広い敷地に、築山に池、ゴルフの練習用の芝生と網が見える。裏庭にはテニスコートもある広い屋敷が、静まり返っている。やっぱりへんよ。
「ママ、わたし、ちょっと行ってみる」
みゆきは台所口へ飛び出して行った。表へまわらなくても、2つの家は、 境のくぐり戸を開け放しにしてあって、いつでも近道できる。戸口を出ようとした時、ガレージに車の入る音がした。
「パパだっ! こんなに早く? どうして?」
みゆきはまわれ右して、玄関へ突進した。ママもいぶかしみながら、追ってきた。
「何かあったのかしら? あったのね!」
高校3年生を受け持っているパパが、4時頃帰宅なんて、かつてないこと だった。
「たいへんなことになった・・」
ドアをあけ、母の顔を見ると、父はうなるように言って、めまいがしたように、戸口にもたれかかった。その顔は真っ青だった。みゆきが初めて見る、父のうろたえきった顔だった。
「土屋のやつが、夕べ遅くに一家で夜逃げした! 銀行の教え子から内密の連絡があったんだ。多額の不渡りを出したそうだ。まったく知らなかったが、以前から火の車だったらしい」
「ええっ! そ、そんな! それじゃ、わたしたち・・・」
母は口をおおって座りこんだ。足も手も震えている。みゆきは訳もわから ないまま、母のそばで呆然としていた。
夕べの電話の時の明美は、あんなに普通だったのに? 母親や弟に喜んで伝えてたのに、あの後、急に夜逃げをすることになったの? なんで? どうして? 何が何だかわからないよ!
父と母は、それから、はげしく言い合いもまじえながら、あちこちに電話をかけ始めた。お祝いもパーティも、吹っ飛んでしまった!
問い合わせ、相談、経験者への質問、弁護士への依頼・・父が、母が、くりかえし電話口で説明したり、震えたりしている様子を見ているうち、みゆきにもおぼろげに伝わってきた。
土屋明美の一家4人が姿を消してしまったのは、何億もの借金が払えない せいだということ。しかも、そのうちの5千万円は、土屋昭彦氏が銀行から借金する時、隣家で幼なじみだった父が、連帯保証人になったこと。その 1枚の紙切れのせいで、父は銀行から、5千万円の支払いを迫られることになるのだと・・。それだけは確実なことらしい。
〈フワタリ〉だの〈レンタイホショウニン〉だの〈タンポ〉だの、わからない言葉がいくつかあった。それでも、この家には住めなくなることだけは、みゆきにもはっきりわかった。
「気にはしてたのよね、あの時。でも、あなたがだいじょうぶ、小さい時 から知ってるけど、あいつはそんな奴じゃないって断言して、怒り出すものだから、しようがなくて認めたのに、悔しいったら! もっと強く、絶体に止めるべきだったんだわ!」
母は涙ぐみながら言いつのった。
「いざとなったら、別荘や土地や宝石や絵を手放すから、ぜったい迷惑は かけない、とあいつ、何度もそう言ったんだ。それを信用してしまって。 すまない」
父はつぶやいて、母に頭をさげた。
「今さらあなたに謝られたって、どうなるっていうのっ。わたしたち、やっと手に入れて5年目のこの家を、出なきゃならないのよ。アパートぐらしに逆もどりよっ。子どもたちを保育園や学童保育に預けたりの、今までの共かせぎの苦労が、ぜーんぶ水の泡じゃないのっ」
母は泣くような声で、ますます言いつのった。
「まだローンが半分以上どころか、もっとたくさん残っているのよ。この家を手放しても、足りない じゃない!」
そんな母を、みゆきはソファーにうずくまって、はらはらしながら見つめていた。さっきまでの穏やかで明るくよく笑い歌う母は、どこへ行ってしまったのだろう。
母はさらに言った。この家を買う時、母の方が父の2倍近いお金を出せた のは、母が給料のいい私立高校での勤めと、家でのピアノ教室で教えることをがんばり続けて、公立勤めの父よりもたくさん稼いでいたからだ、と。
父の表情が苦しげに歪んだ。母は身もだえしてヒステリーみたいに叫んだ。
「ああ、悔しいっ!時間も努力も人情も、ぜんぶ踏みにじられたのよっ!」
みゆきはもうそれ以上、聞いていられなかった。
(パパがかわいそう! ママはひどい! あんなことまで言わなくったって! みじめなパパを見たくない! ママだって別人みたいだ!)
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