2章-(1) 中学入学の朝
入学式の朝。トントントン、ふすまをノックする音。どうじに、ガタガタとふすま全体がゆれて、みゆきは目をさました。真っ暗だ。
ここはどこ?
最初に頭に浮かぶのは、このところ決まってそれだ。
首をまわすと、戸のすきまにひとすじ光が走っている。ああ、朝か、ここは〈さくらアパート〉の押し入れの中だった、とがっくりする。
パパとの2人暮らしが始まって数日目だ。
「入学式は9時だったね。遅刻するなよ。夕食は7時ごろかな、焼き肉に しよう。買い物はたのむ」
父のかすれ気味の低い声は、必要なことだけは伝えておかなくてはと、ムリして押し出している感じだ。
「わかった」
ぼそっとつぶやいた返事が、押し入れの外にいる父に聞こえたかどうだか。元気な声を出したくても出ないんだ。朝の寝起きがだるくてならない。
ぐずぐずとふとんの中で身動きしている間に、父は出口で靴をはき終えた らしい。少し大きな声で、自分を奮い立たせてでもいるように、言い残した。
「5月のいつか、たぶん助っ人が来てくれるかもしれない・・」
それだけ言い置いただけで、あとはドアが開き、また閉まり、カチャとカギを閉める音が続いた。それから、父の靴音が遠ざかって行った。
川ぞいの道をJRの駅まで15分歩くのだ。電車は5分で、新しい勤務先の高校の近くに着くのだそうだ。
つい先週の3月末まで、父はパジェロの紺色の車を磨きたてて、大事にしていた。でも、売り払って今はもうない。そのうち自転車を手に入れて、それで通うつもりでいるらしい。
(助っ人って、だれよ?)
みゆきはふいにその言葉にひっかかって、ふとんから首を出しかけたまま、固まってしまった。
(お手伝いをやとえるはずないし・・。まさか・・)
教師の職場の他は何もかも失って、今が一番しょぼくれている父に、新しい人ができるなんてこと、あるはずがない。じゃあ、何よ!
みゆきは、なぞや問題がとけないと、いらつく癖が出て、ふすまをざっと 開けた。とたんに幻滅の怒りが、わっと吹き上げる。その怒りはこのところ毎朝のことなのに、まだうすれることがない。
家具ひとつない畳の4畳半、その向こうの6畳には、父の机と本箱とシングルベッドだけ。先週までいた神与町の6LDKの家には、花鉢類や皮張りのソファや、美しいものがあふれていたのに。
あそこでは、ピアノが2台あるママのへやには、週末には子どもたちのお客が出入りしていて、それはにぎやかだった。ここはなんて殺風景!カラッポじゃない!
(こんなの我慢できない!)
思いきり、わめいてやりたい!閉じこめられた怒りが、胸の中でわき返っている。このところ気分が不安定だと、自分でもわかっている。すぐにいらついて、怒りがふくれあがる。すぐに涙はあふれる。笑いだけが氷室の中で凍りついてるみたいだ。
だいたい、口をきくのがおっくうだった。口の中がカラカラに乾いていて、舌が上あごにくっついてしまう。声を出すには、よほど力を入れなくては ならなかった。
今、このアパートにある家具類といったら、必要最低限以下だ。押し入れの上段を〈みゆきの小べや〉にしてもらって、そこに押しこんだ、小さな机と、背の低い本箱とふとん一式。ぬいぐるみ人形も、今はゴリラのダブダブだけ。
それから下の段に、父とみゆきの衣類や雑物、書物類をつめたダンボール箱が14個ほどと、台所のガス器具のわきにおいた、食器類となべと土鍋と フライパン、それが今の内藤家の全財産なのだから。
たたみ2へやの隣に、フローリングのリビングが台所兼用になっているが、そこもがらんとして、以前は野菜置き場だった小テーブルと、丸椅子が2つあるだけ。ソファ、冷蔵庫、食器戸棚、テレビはおろか、電気釜さえない。
神与町の家にあった物のうち、ピアノ2台と母の車を除く金目のものは、 ほとんど売りに出され、残りの大部分が母の住まいの方へ運ばれたからだ。
父はきっと、毎月の給料を待って、これから順に買い整えるつもりなのだ。
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